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☆息子の旅立ち〜子離れを考える
高校卒業を待たずに、
息子はヨーロッパへ旅立った。
人間には翼がある。
空を飛ぶ鳥を見て一人確信する。
彼と私は、どうして出会ったのだろう。
確かに彼は
私の腹から生まれ出てきた。
しかし、多くの哲学者が言うように、
私が彼を作ったわけではない。
彼は初めから
自分の力で生きている。
一人の人間同士の、
偶然のたまたまの出会いで、
どうしてなどという理由はないのだと思う。
子どもを授かるとか、
子どもが欲しいとか、
私の子ども、などとよく聞くが、
これは子どもを所有物とした表現に思える。
それが年月を重ね、
子離れ、親離れという、
こちらもよく耳にする段階を迎えることとなる。
離れたくないなら
無理に離れなくたっていい、
通常親は先に死に、
離れなくてはならない日が必ず来るのだから。
だけどそんな日を待たずとも、
親ならば、
自分と彼(彼女)が、くっきり分かたれた、
まるっきり別の生き物(人間)だと
気づく時があるはずだ。
彼(彼女)の人生に自分の介入は不要で、
本人に任せるしかないと
察する時があるはずだ。
自分が産んだばかりの赤ちゃんを
それを自分からくっきりと分かたれた、
一人の人間として、
距離を置いて見ることができたら、
私はその人を哲学者と呼んで、
大いに尊敬してしまうだろう。
私も含め大抵の人は、
自分の一部として、自分に包括された、
自分の存在と同じかそれ以上のものとして、
全責任を負い、
自分自身にも価値を生み出すものとして、
場合によっては
一生守っていく、命をかけて幸福にする、
なんて誓うとか、
そんなふうに見るのではないか。
その時点で親と子は
一つの塊と言ってもいい。
もちろん哲学者はそんなこと認めないが、
これは大抵の親の心の中に起こっている現象で、
ある期間、親が子を
自分が所有していると錯覚しても
仕方のないことだと思うのだ。
子離れ、という言葉があるのも、
離れていない状態が
前提としてあってのものだから、
親のこういう思いはさして異常ではなく、
認知されたものだと言える。
親と子は
いつまで一塊でいるのだろう。
一塊とはいかないまでも、
一人と一人に見えなくもないが
曖昧な部分が残っている、
という段階とかもあるだろう。
イメージで言うと、細胞分裂の途中、
そこからビヨン!と分裂する、
一つの細胞が二つになる、つまり、
二つの細胞の間に仕切りができる、
ここではまだ、細胞と細胞は
隣同士くっついて、
ぬくもりを感じ合っているが、
やがて距離ができ、それぞれの場所で生きる、
それが離れる、
一塊状態の終わり、ということだろう。
もちろん、実家暮らしや二世帯暮らしを
ひっつき親子と言っているのではない。
心の持ち様、
お互いの介入の程度のことを言っていて、
それに、親子の話と家族の話はまた別だ。
かと言って、ただ子が親元から離れ、
親が当初の寂しさを乗り切れば、
子離れは完了なのか。
そう言い切ってしまうのもあやしさが残る。
子離れは
絶対にしなくてはならない、強制されたものでは
ないのなら、
自発的な形で成されるものなのではないか。
子離れしなきゃ、ではなく、
子離れしたい、と思った時、
親としての自分ではなく、
ただ、この、自分、という自分が
わっと顔を出す。
子どもの人生への期待、
自分への見返り、
行き過ぎた心配、こういうものを一切、
子どもにも自分にも介入させたくない、
それが子離れしたいという気持ちだと思う。
子離れしたいと自然に思った日、
子離れは自然に果たされるのではないか。
人間には翼がある。
親たちの背中にももちろんある。
しまっていた翼を広げられればいいな、と
空を飛ぶ鳥を見て静かに思う。