見出し画像

☆この、恐怖を伴う暑さと哲学

 暑いね、とは夏の挨拶で、暑さの感じを言ったり、エアコンの使い方を述べたり、いつまで続くだの、昔はこうじゃなかっただの、会話は結構広がっていく。その中には、地球は大丈夫かという不安を表す人もいる。挨拶だからそれ程深刻にはなっていかないし、言ってもしょうがないから言わないだけで、そういう不安を持っている人はかなりいるのではないだろうか。

 環境問題や行く末や責任について言いたいのではない、このどうしようもない、狂った暑さの中生きる人に対して、哲学は、何かできないものかと考えたいのだ。だけど、ざっと考えてみても、どうアプローチしていいか見当もつかない。そもそも哲学ってどうしてあるのか、そこでずん止まる。数学も科学も文学も、職務を得て堂々としている。哲学は?身を潜めすぎ?

 新型コロナの初期、医療現場は不安や緊張や無力感、様々な思いが渦巻いていたことだろう。医師が自殺したという報道を聞いた時、直感的に、哲学者たちは何やってんだ、と呟いた。

 哲学があんまり広まったら、確かに害となるのだろう、小中学校でも、きちんと教えるのは哲学でなく道徳だ。だけど紀元前から現在まで生き続けているこの学問は、やはり人類にとって欠かせないものだと言っていい。一人一人が誰の思想に賛同するか、それを研究し、考察し、解説して本を出し、それを読んだ人がふんふん、いいこと言ってるね、それが哲学なのだろうか。確かに真理など見つからないかもしれない、人々を結束させたり、奮起させることなどできないだろう。そういう自信のなさなどかなぐり捨てて、あの時、哲学者にがんばってほしかった。カウンセラーでも心理学者でもなく。

 それと同じ願いがあるのかもしれない、現在がそのくらい深刻だと感じているのかもしれない。もしもこの狂った暑さに打ちのめされる人がいるなら、その人に必要なのは哲学なのではないか。エアコンも水分もテレビもスマホも持っていて、それでもダメなら点滴して、それでもダメなら、哲学者の演説こそその人に勇気を与えるのではないか。

 私にその力があればな、あるわけないので哲学者さん、NHKとかで小一時間、お願いできませんでしょうか。それとも秋になれば、私達は夏のことなど忘れ、一緒に不安も心配も忘れ、安心してまた、いつもの様に老後の資金やらシミやしわやらを心配するのだから、ほっとけばいいのだろうか。



#エッセイ #哲学 #暑い #不安

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?