見出し画像

☆哲学者は感情を嫌う

 哲学書を読んでいると、感情を毛嫌いする感情を時々見る。哲学に感情は御法度だが、そこにだけ感情がぴょこっと顔を出すのが面白いと思う。

 感情をゼロにするなんて、いくら哲学者でも無理だろう。だからこそ哲学者は、感情が自分をどれ程誤った方へ誘導するかをよく知っていて、私達にそれを警告する。知っているということは、経験しているということなのではないか。感情を示す言葉がすでにいくつもあって、その一つ一つに経験を乗せられるほど、感情を渡り歩いてきているということなのではないか。そして論理は、その反省が組み込まれた土台の上に展開されていて、そういうところに哲学者の人間味を感じる。

 哲学者が、感情によって物事を見誤り、考えを一時遮断させられ、仕事の邪魔をされ、もうほとほと感情の取り扱いに困った、という姿を想像すると楽しい。

 感情は人間を時に、とんでもない方へ連れていってしまう、とんでもない行為をさせてしまう、この感情の力が不思議でならない。

 デカルトの情念論は、デカルトの何で?どうして?と、感情さえ論じてやる、という挑む気持ちとが伝わってくる。

 ソクラテスは、視野狭窄を引き起こすと言うし、池田晶子は、部屋を突っ切る一羽の騒々しい鳥と言うし、感情など相手にしないという姿勢をとりつつも、やはり人間を語る上で避けては通れないという、仕方のなさが感じ取れる。

 物事や出来事を、感情を通してから見てしまうと、不思議とそれが本当のことだと思い込んでしまう。その思い込みの上に次のものを積み重ねて、出来上がったよくわからないモンスターが心に棲み着くことになる。

 嫌いな人が言った言葉は、それが正しかったとしても、嘘や思惑に聞こえてしまうし、悲しみが先に立ってしまっていては、自分など簡単に見失ってしまう。それは、モンスターの仕業だと思っている。

 感情を通すことなく物事を見ることが、少しずつ身についてきて、私の心の中の景色は、ただの荒れ野だ。既製の建物も植物もないし、よくわからないモンスターもいない。景色としてもつまらないが、人間としても相当つまらないのは間違いない。こんな哲学者かぶれ、面白いと思っているのは本人だけだ。



#エッセイ #哲学 #感情 #誤る

いいなと思ったら応援しよう!