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【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p13-34

レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017

 大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。

たぶんレヴィナスはこのような自他の構造を前提していると思います。

序章

p13: 戦争によって道徳は嗤うべきものとなる。道徳に替わって、戦争に勝利する技術としての政治が理性の手段となる。

p14: 戦争は全ての人々から主体性を剥ぎとる。やりたくもない戦争を誰も止めることができないという事実がそれを証明している。

p15: この主体性の剥ぎとりが、全体性だ。西欧哲学は、正しいことは誰にとっても正しい、という全体性に支配されている。

p16: 平和とは戦争の束の間の休息だ。「勢力均衡」という戦争を前提とした政治によってもたらされるかぎり、平和もまた、すでに人々から主体性を奪っているのだ。

p17: 歴史の果てに個人として裁きを受けるという終末論 (最後の審判)  を哲学者は笑う。しかし、この「個人として」のやましさ、その行く末としての審判への恐れこそは、全体性をはみ出した人間性の象徴だ。本書では、全体性からはみ出したものを「無限」と呼ぶ。

p18: 最後の審判が示唆するのは宗教的物語ではない。「理屈ではうまく言えないが、しかし私はそれをやましく感じる」という主体性だけが戦争に抗う、つまり全体性に抗うことができる。

p19: この「理屈ではうまく言えないやましさや恐れ」のメカニズムを分析することが本書の目論見だ。

p20-21:  そんなことをしても戦争はなくならい、主体性の無力は変わらない。たしかにもっともだ。しかし、「正しいことは、誰にとっても、正しいことだ」という全体性こそが、戦争を正当化するのだ。戦争を批判するにも正当化するにも、全体性の土俵の上で議論される。最後は「正しい戦争」、百歩譲っても「やむを得ない戦争」という結論になる。戦争が常態化している事実がそれを示している。だから全体性という土俵をまず無力化したいのだ。

p22: 全体性は手強い。全体性とは思考そのものだからだ。思考がどのように立ち現れるのかという経緯を遡り、そこに思考の外にあるもの「無限」を見出して、無限の働きを記述しようとするのが本書のアプローチだ。

p23: 無限は経験できない。経験も思考の一部なのだから、思考を溢れ出すものを経験として位置付けられないからだ。だから、本書は、経験に収束できないという経験を探究することになる。

p24: 個人が全てを全体性にあけわたすなら、主体性など考える意味もなくなるのだから、無限、つまり思考をはみだすものこそ主体性の基盤となるに違いない。だから本書は主体性を擁護する一書として提示される。

p25: 無限(思考をあふれ出すもの)は生起のメカニズムとして記述されるはずだ。もし存在として記述されるならば、無限はすでに思考によって獲得されており、全体性の一部に位置付けられるからだ。

p26: 無限が生起するという状態は、私のうちで起こるにもかかわらず、私を溢れでているものと関係する。だから、本書は、他者を迎えいれることとして主体性を提示するだろう。

p27-29:  無限は生起のメカニズムとしてしか記述できない。いったん生起し終わったものは、もはや思考を溢れでていないからだ。そう考えると、無限こそ思考のみなもととも考えうる。
 ハイデガーは、真理とは、隠蔽を剥ぎとり発見するという作用だと考えた。しかし、それは発見されるものごとの存在を前提としているのだから、すでに全体性に囚われている。
 他者を迎えいれること、そこで正義 (やましさを感じ、裁きをを恐れること) が顕れることは、生起であって、自らの思考のうちにあって隠れていたものを見つけることではない。

p30: 思考とはつねに「何かについての思考」なのだが、その「何か」もまたすでに思考以前に思考されているからこそ、思考の対象になりえる。このように「何か」を思考の対象とするという対象化思考が、(それがなければ思考できないにもかかわらず)忘却されなければ思考はまえに進まない。このような体験は、思考そのものが、思考をあふれ出るものと関係していることを示唆している。

p31-32: 〈意味不明〉 フッサールの現象学によって可能になったのは、倫理から形而上学的な外部性(無限なるもの)へと、このように移行することなのである。

p33-34: 序文ですでに寄り道や回り道していることは承知している。語られたことはすでに動きを止めている。語ったことを、解体し、取消し、語りなおし続けることに、ことばの本質はある。



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