見出し画像

【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p73-84

レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017

 大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。


5〈無限なもの〉の観念としての超越

p73-75: ・・無限の観念は、観念によって観念されたものが・・当の観念を踏み越えているという点で、例外的なものである。これに対して、ものについては、「客観的」で「形式的」な実在との完全な一致の可能性が排除されていない。

 〈同〉を人の内的世界像、〈他〉を実世界と考えるならば、実世界には非生命と生命があり、生命にも動物や植物の分類があり、動物にも人間かそうでないかの分類がある。いずれも〈無限〉だが、そのあり様には違いがある。もの(非生命)は、働きかけに対する反応の再現性が高い。だから、ものは〈同〉への還元に静かに応じる。それでも、ものが探求しつくされることは永遠にないだろう。とはいえ〈同〉はものを〈同〉に還元し続けることができる。具体的には知識の拡大となる。
 逆に生命には何らかの内的世界像があり、そのうえ人には言葉がある。〈同〉への還元を断固拒否するという意味で、人は〈無限〉の極北に位置する。このような〈無限〉のあり様の違いは、内的世界像の有無、言葉の有無と関係している。

p76: 無限なもの、超越的なもの、〈異邦人〉について思考することは、だから、対象について思考することではない。・・無限は・・〈渇望〉として生起する。

p79: ・・〈無限なもの〉への〈渇望〉・・は完全に利害を脱した〈渇望〉であって、つまりは善さである。けれども〈渇望〉と善さは・・〈渇望されるもの〉が・・《私》の・・権能と支配を停止してしまうような関係を前提しているのである。このことは、積極的にいえば、私が所有している世界を〈他者〉に贈与する(つまり語る)ことが可能であること、言い換えるなら向かいあった顔が現前することとして生起する。

 〈無限〉が思考に収まりきらず、対象化もできず、しかも〈無限〉への渇望が抑えがたいならば、〈無限〉を渇望する行為は、何らかの関係遂行として現れるしかない。それが「顔の現前(対面)」と「語り(対話)だ。


ふりかえり

 このあたりで唐突に「顔の現前」というキーワードがでてきて混乱するので、いったん粗筋を整理してみようと思います。

 もともと〈私〉は、実世界のうち手の届くかぎりの一切合切を〈私〉の内的世界像にコピーして、内的世界像と実世界を区別なく「世界」だと思って生きています。しかし、その実、おおかたの場合、内的世界像のなかで生きております。これが「〈他〉を〈同〉に還元する」ということです。
 しかも、この〈他〉が無限なのです。これまでの文脈からすると、〈他〉とは実世界のことですから、実世界が無限なのです。ということは、無限への渇望とは、実世界への渇望ということになります。

 勘違いしているかもしれませんが、私なりの理解をキーワードで整理するとこうなります

  • 〈全体性〉 ≒ 〈同〉 ≒ 〈内的世界像〉

  • 〈無限〉 ≒ 〈他〉 ≒ 〈実世界〉

 さて、〈実世界〉を探求するとなると、なんらかの「働きかけ」を〈実世界〉に対して発動して、その「フィードバック(反応)」をもとに、納得(つまり〈同〉に還元)することになります。日常生活でも科学的探求でも同じです。また探求の対象が「もの」でも「人」でも同じです。

 科学の進歩が示しているとおり、「もの」の〈同〉=〈内的世界像〉への還元は拡大し続けています。しかし〈他者〉の還元は、同じようにはいかないだろう、というのがレヴィナスの問題提起だと思います。

  1. まず、各人が〈同〉です。〈私〉の〈同〉は〈他者〉にとって〈他〉なので、人々すべてが互いに「〈他〉を〈同〉に還元しようとする」ことになります。

  2. 〈他〉が〈無限〉であるということは、〈私〉の〈同〉は〈他者〉にとって〈無限〉となります。

  3. 〈同〉とは〈内的世界像〉ですから、この〈内的世界像〉のなかには、〈同〉が還元した【私】と【他者】がおります(混乱するので、内的世界像の住人を【 】で区別しておきます)。【私】も【他者】も〈内的世界像〉の住人であって、〈内的世界像〉は〈同〉であって〈私〉ですから、【私】も【他者】も、じつは〈私〉なのです。

  4. 〈同〉とは〈私〉=【私】、〈他者〉=【他者】であるかのように、勘違いしたまま思考し、行動するありさまのことでもあります。

 この時に一体何が起きているのか?ということがレヴィナスの問いだと思います。相手が人でも〈実世界〉の探求手段は「働きかけ」と「フィードバック」しかない。人の場合、それが「対面」と「対話」になります。

 日頃、〈同〉は〈他者〉と【他者】を区別せずに、〈内的世界像〉のうちで勘違いしたまま充足しているわけですが、「顔の現前」によって、このときだけ、〈同〉が対面しているのが【他者】ではなく、まぎれもなく〈他者〉である、とはっきりと思い知ることになります。

 そういういきさつで、ここで唐突に、「顔の現前(対面)」と「語り(対話)」がクローズアップされたのであろうと思います。

(ふりかえり終了)


p80: ・・私のうちにある〈他者〉の観念を踏み越えて〈他者〉が現前する様式は、じっさい顔と呼ばれている。

p81: ・・語りにおいて〈他者〉に近づくとは、〈他者〉の表出を迎え入れることであ。〈他者〉はその表出にあって、(〈私〉の)思考が〈他者〉から奪い取ってきた観念を一瞬一瞬あふれ出してゆく。・・したがって、《私》の容量を超えて〈他者〉を受けいれること・・また、教えられることでもある。・・つまり〈語り〉はアレルギー的ではない関係であって、・・迎え入れられるこの語りは教えなのである。

p82-84: ・・(〈同〉に還元した)無限の観念をあふれ出す無限なものは、私たちのうちにある(〈他〉を〈同〉に還元することを良しとする)自発的な自由を告発する。

 実世界の〈他者〉は、〈同〉の【他者】像におかまいなく、語り、ふるまう。その結果、〈他者〉≫【他者】であることを〈同〉が思い知る。この【他者】を踏み越えた〈他者〉は〈同〉の見知らぬ〈他〉であり、〈同〉が〈同〉に還元できていない〈他〉でもある。つまり〈同〉をはみ出したものだから〈同〉への教えとなる。同時に、〈同〉は〈他者〉を勝手に〈同〉に還元している身勝手さを恥じ、〈無限〉を〈同〉に還元するという企てに畏れを感じる。


いいなと思ったら応援しよう!