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【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p142-150

レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017

 大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。


B 分離と語り

6 形而上学的なものと人間的なもの

p141: 形而上学的な関係は、神話なき人間性の夜明けである。・・一神教的な信仰はそれ自体、形而上学的な無神論を前提している。

 〈同〉と〈他〉が分離しており、〈他〉(=実世界)が無限であることによって神の肯定にも否定にも先立つ内的世界(=形而上学的無神論)が〈同〉に生じる。この関係は、〈同〉と〈他者〉のあいだにも変わることなくあてはまる。

 真理とは顔の現前(=対面と語り)を介した〈同〉と〈他者〉の関係であり、倫理とは対話をつうじた贈与と承認という関係だと言った。真理も倫理も確証し得ない以上、在るとか無いとか断言できない。言えるのは、「対話をつうじた贈与も承認もなく、顔の現前もないならば、そこには真理も倫理も顕れようがない」ということだけだ。

p145: 見えざる神とは、たんに想像不可能な神を意味しているのではない。正義において接近可能な神をも意味しているのである。・・正義のはたらき、対面の正しさが必要なのであり、・・そこで「見神(ヴィジョン)」が正義のはたらきと一致するのである。だから、形而上学は、社会的な関係がはたらくところで、つまり人間たちとの関係においていとなまれることになる。人間たちとの関係から切りはなされたところでは、神についてのいかなる「認識」もありえない。他者とは形而上学的な真理の場にほかならず、神と私の関係にとって不可欠なものである。

 神は姿を顕すことなく啓示する。啓示とは語りであり、姿なき神との対面であるという関係は、顔の現前という関係を前提としている。神の顕現の仕方として、それ以外の選択肢が〈同〉のまわりにはないからだ。
 もし宇宙に私がひとりぼっちで居るならば、真理も正義も神も顕れようがない。すべては、〈他者〉が居ることからはじまる。

7 対面という還元不可能な関係

p146: 〈無限なもの〉の観念を所有するためには、分離されたものとして現実に存在しなければならない。

p149: 〈同〉と〈他〉は、両者を包含するような認識の圏内に入ることができない。・・とはいえ、〈同〉も〈他〉も私たちによって名ざされているではないか?・・〈他者〉はかならず私にふり向く。・・〈無限なもの〉についての私の観念をかいして、私にふり向くのである。

 〈他〉が無限であることが発端である以上、私たちは〈無限なもの〉の観念を所有していなければならない。〈同〉に還元しえないことが〈他〉であるにもかかわらず、どうして〈無限なもの〉の観念を私たちが所有している、つまり〈同〉に還元できているのか?

 もし、「対面と語り」の無いヒトとその他の自然だけで世界ができているならば、「非常にたくさん」とか「非常に遠く」という観念は生じるかもしれないが、「無限」という観念は生じないにちがいない。

 「対面と語り」による「かたち」の不断の解体が、言い換えると私の内的世界における不断の意味(=差異)創出が、〈無限なもの〉を私に教える。つまり〈他者〉は二重の意味で対面する。物理的に顔が対面するだけでなく、顔の向こうに私の内的世界に還元しえない無限が広がっていることを私に告げ知らせつつ対面する。

 だからそもそも「語り」はいつも「対面」であり、〈同〉に還元不可能なことを私に知らせつつ行われる。


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