【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p85-97
レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017
大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。
B 分離と言説
1 無神論あるいは意志
p84-85: 定立と判定立・・が対立として現れるのは、双方を包みこみ概観する視線に対してである。
〈同〉は〈他〉と分離していると言っても 「U=A+(Aの否定)」の形式で表現できるものではない。もしそうであるならば、Uという全体がすでに〈同〉に還元(同化)されていることになるからだ。
※ 〈同〉と〈他〉を内的世界像と実世界に対応させると理解しやすくなります。しかし、レヴィナスがそのような説明の仕方を断固拒否するのは、内的世界像と実世界を俯瞰する眼差しを人間が持つはずがないからです。人間の眼差しは内的世界像にしかない。実世界を見るとは、厳密には実世界の一部を内的世界像に回収して、その内的世界像を見ることだからです。
p86: 〈同〉の分離は、内部的な生、心性の相のもとに生起する。・・心性はすでに一個の存在することの様式であって、そうした様式であることで全体性に抵抗してる。
〈同〉は〈他〉への働きかけとフィードバックを通じて、全く独自に内的世界像を描く。この内的世界像は全く〈同〉独自のものであって、〈他〉(=実世界)との一致が一切確証不可能な関係にある。これが〈同〉と〈他〉の分離のあり様だ。
〈他者〉の内的世界像もまた〈他〉から分離されているということは、〈他者〉を〈同〉に還元できないということだ。このような全体性への抵抗は、〈同〉に内的世界像が生じるからだ。
p87: 要するに、存在は一挙に存在するわけではない。存在に先立つその原因もまた、なおも到来するものである。存在することの原因は、あたかもその結果よりあとからくるものであるかのように、結果から思考され認識されるからである。
p88: 分離とは思考に映し出されるものではなく、思考によって生起するものなのである。
私はさまざまな因果を、過去に遡って思うわけだが、その「思う」は現在進行形であって、この「思う」が生じていなければ、過去からの因果などありえない。どのような因果であれ、現在進行形の「思う」ことを起点に生じている。
これは、あたかも結果から原因が生じるような大逆転を、私が「思う」ことで日々繰り返し遂行していることを意味する。
しかも「思う」ことと内的世界像が生じることは全く同じだから、それによって〈同〉と〈他〉の分離も生じていることになる。
つまり、心性(=内的世界像)が〈同〉と〈他〉の分離を生じ、因果を創造していることになる。
p92: 起源という絶対的な過去のうちで、それを受容する主体をもたなかったもの、それゆえ一個の宿命としてのしかかるものがある。私は今日それを引き受けるのである。
しかし、どんどん遡(さかのぼ)っていけば、自分の意志で生まれてきたわけではない、つまり納得できる因果などあるはずがない。ということは、理由づけはさまざまあるにしても、私が今ここに平気で生きているのは、「私がここにあるという事態を理由なく引き受けている」ことにほかならない。
p92: 歴史的な時間を逆転するものとして、記憶が内部性の本質なのである。
同と他を分離するのは内部性(=心性=内的世界像)であって、過去から未来に流れる時間の流れにも関わらず、現在進行形の「思う」が過去を引き受けることによってのみ過去が存在しえる。記憶とは、このような現在進行形の過去の引受けのことであって、内部性(=内的世界像)が可能となるのはこのような記憶の役割によるものだ。
p92: 修史家(歴史記述家)のものである全体性のうちでは、〈他者〉の死はひとつのおわりであり・・。
p93: 死ぬことが不安であるのは、死にゆく存在はみずからおわりながらも、みずからをおわらせることができないからである。死にゆく存在にはもう時間はない。・・それでも、ゆくことができないところへと歩み、窒息することになる。・・いつまでも、である。
他者の死を見とることができても自分の死を見とることはできない。内部性(=心性)とは、このように現在進行形で見渡せる限りの過去を引き受けつつ、自分には見とることのできない死に、永遠に近づいていく自身の有り様のことだ。他人が見ることもできず、とって替わることもできない、私だけの景色のことだ。
さらに「自分には見とることのできない死に、永遠に近づいていく」という内部性の生きざまは、内部性にとっての時間が、歴史的(物理的)時間とは異なるものであることを意味している。
人間の眼差しとは内的世界像にほかならず、そこでは理由も起源もなく私がここに居ることを引き受け、因果を創造し、自分では見とることのできない死に永遠に近づいていく。我々は、このような内部的な生の次元を無視して、他者の生と死を記述するかのごとく、自分の生と死を記述する。しかし、それはもともと不可能なことだ。このことはまた、他者の内部性を私が替わりに体験することもできないことを意味している。
p96: 社会における多元性は、この秘密にもとづいてはじめて可能となる。