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【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p85-101

レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017

 大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。


B 分離と言説

1 無神論あるいは意志

この節の要約

 〈同〉(=内的世界像)は〈他〉(=実世界)を還元し(=内的世界像に取り込んで)、〈同〉の内に棲まう。

 世界が私たちの前に立ち現れるのは〈同〉が〈他〉を還元するからだ。このことは「〈同〉による〈他〉の還元」が「世界が立ち現れること」に先行していることを意味している。還元は、〈同〉の働きかけに〈他〉が反応するという循環を通じて遂行される。見える、聞こえるといった一見受動的に見える行為さえ、実は見る、聞くという〈同〉の働きかけなくしてこの還元は生じない。

 つまり、世界が私達の前に現れるのは〈同〉が〈他〉を「一方的に」還元するからだ。

 この〈同〉と〈他〉の非対称な(=一方的な)関係を「分離」と呼ぶ。しかも、この分離は「世界の立ち現れ」に先行する。神が現れるにしても、そうでないにしても、それが「世界のたち現れ」とともに生じる以上、分離は神に先行するという意味で無神論でもある。

 分離がなしとげるこのような〈同〉の圧倒的エゴイズム(=無神論)が主体性の根源であり、主体性はこの分離という構造によって支えられている。

各論

p84-85:  定立と判定立・・が対立として現れるのは、双方を包みこみ概観する視線に対してである。

 〈同〉は〈他〉と分離していると言っても 「U=A+(Aの否定)」の形式で表現できるものではない。もしそうであるならば、Uという全体がすでに〈同〉に還元されていることになるからだ。

※ 〈同〉と〈他〉を内的世界像と実世界に対応させると理解しやすくなります。しかし、レヴィナスがそのような説明の仕方を断固拒否するのは、内的世界像と実世界を俯瞰する眼差しを人間が持つはずがないからだと思います。人間の眼差しは内的世界像にしかない。世界に棲まうとは、厳密には実世界の一部を内的世界像に還元して、その内的世界像のうちに棲まうことだからです。

p86: 〈同〉の分離は、内部的な生、心性の相のもとに生起する。・・心性はすでに一個の存在することの様式であって、そうした様式であることで全体性に抵抗している。

 〈同〉は〈他〉への働きかけと反応を通じて、内的世界像を描く。これは全く〈同〉独自の一方的行為であって、〈他〉(=実世界)との一致が一切確証不可能な関係にある。この〈同〉による一方的還元が〈同〉と〈他〉の分離のあり様だ。
 〈他者〉の内的世界像もまた同様な一方的還元によって〈他〉から分離されているということは、〈他者〉の内的世界像を〈同〉が共有できないということだ。このような全体性への抵抗は、各人の内的世界像が一方的還元で生じるからだ。

p87: 要するに、存在は一挙に存在するわけではない。存在に先立つその原因もまた、なおも到来するものである。存在することの原因は、あたかもその結果よりあとからくるものであるかのように、結果から思考され認識されるからである。

p88: 分離とは思考に映し出されるものではなく、思考によって生起するものなのである。

 事物であれ神であれ存在が確証できないにもかかわらず存在しえるのは、我々が〈同〉(=内的世界像)に住まい、そこに現れることが存在することだからだ。これは〈同〉と〈他〉の分離が存在に先行するということでもある。

 私はさまざまな因果を、過去に遡って思うわけだが、その「思う」は現在進行形であって、この「思う」が生じていなければ、過去からの因果などありえない。どのような因果であれ、現在進行形の「思う」ことを起点に生じている。
 これは、あたかも結果から原因が生じるような大逆転を、私が「思う」ことで日々繰り返し遂行していることを意味する。

 しかも「思う」ことは内的世界像が生じることの一部だから、それによって〈同〉と〈他〉の分離も生じていることになる。

 つまり、心性(=内的世界像)が〈同〉と〈他〉の分離を生じ、因果を創造していることになる。

p92: 起源という絶対的な過去のうちで、それを受容する主体をもたなかったもの、それゆえ一個の宿命としてのしかかるものがある。私は今日それを引き受けるのである。

 しかし、どんどん遡(さかのぼ)っていけば、自分の意志で生まれてきたわけではない、つまり納得できる因果などあるはずがない。ということは、理由づけはさまざまあるにしても、私が今ここに平気で生きているのは、「私がここにあるという事態を理由なく引き受けている」ことにほかならない。

p92: 歴史的な時間を逆転するものとして、記憶が内部性の本質なのである。

 同と他を分離するのは内部性(=心性=内的世界像)であって、過去から未来に流れる時間の流れにも関わらず、現在進行形の「思う」が過去を引き受けることによってのみ過去が存在しえる。記憶とは、このような現在進行形の過去の引受けのことであって、内部性(=内的世界像)が可能となるのはこのような記憶の役割によるものだ。

p92: 修史家(歴史記述家)のものである全体性のうちでは、〈他者〉の死はひとつのおわりであり・・。

p93: 死ぬことが不安であるのは、死にゆく存在はみずからおわりながらも、みずからをおわらせることができないからである。死にゆく存在にはもう時間はない。・・それでも、ゆくことができないところへと歩み、窒息することになる。・・いつまでも、である。

 他者の死を見とることができても自分の死を見とることはできない。内部性(=心性)とは、このように現在進行形で見渡せる限りの過去を引き受けつつ、自分には見とることのできない死に、永遠に近づいていく自身の有り様のことだ。他人が見ることもできず、とって替わることもできない、私だけの景色のことだ。

 さらに「自分には見とることのできない死に、永遠に近づいていく」という内部性の生きざまは、内部性にとっての時間が、歴史的(物理的)時間とは異なるものであることを意味している。

 人の眼差しとは内的世界像にほかならず、そこでは理由も起源もなく私がここに居ることを引き受け、因果を創造し、自分では見とることのできない(つまり死ぬことができない)死に永遠に近づいていく。

 ところが、我々は、このような内部的な生の次元を無視する。他者の生と死を記述するかのごとく、自分の生と死を記述する。自分を他人のように見ることができると誤解する。他者を我が事のように理解できると誤解する。しかし、それは不可能だ。

p96: 社会における多元性は、この秘密にもとづいてはじめて可能となる。

P97-101: じぶんがそこから分離している〈存在〉に融即することなく、分離された存在がまったく単独に現実存在をたもちつづけようとする、かくも完全な分離は、無神論と呼ばれうる。・・無神論ということばによって私たちはこのように、神的なものの肯定にも否定にも先立つ立場、融即からの断絶を理解する。

 文脈からすると、融即とは「まず世界の存在があって、その一部として私が存在すること」のようです。普段、私たちは、実世界と内的世界像を区別せずに生きているので、そのように感じます。けれど実のところ、内的世界像のうちで生きているのであって、実世界の一部として生きているのではない。

 内的世界像のあり様が無神論だというのは、そこに神が現れることもできるし、現れないこともできるという意味だ。

 実世界に神が現れるのか、現れないのか、それはわからない。実世界は〈他〉であり〈無限〉だから、〈私〉(=〈同〉)には知りようがない。

 内的世界像は、〈私〉の実世界への働きかけと、実世界からの応答の循環のなかで生成されるものだから、実世界と懸け離れているわけではない。しかし、神が現れたり、現れなかったりできる程度のバリエーションが問題ないほどに創造的な舞台だ、という意味で無神論的だ。

 このような事態が生じるのは、ひとりひとりの内的世界像が実世界への働きかけと応答の循環から生成されているにもかかわらず、それぞれがまったく独自で〈他〉と孤絶しているからだ。各人の内的世界像は、実世界との循環のなかで生成流転し、他者と共有もできず、切り取ることもできないからだ。

 これを無神論と呼ぶのは、神を貶めるためではない。神が現れるにしても、現れないにしても、〈私〉=〈同〉の主体性が、その舞台として、かけがえのないものだからだ。

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