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【経済のモノサシ】 小林慶一郎 「日本の経済政策」 2024 (4) 財政政策と金融政策の迷走
財政政策から金融政策へ
1990年代の前半、財政政策と構造改革が不発に終わった。今思えば、不良債権処理という根本問題を先送りしていたのだから当然なのだが・・。数兆円〜10兆円規模の財政出動を毎年のように行い、減税し、規制改革も推進したがダメだった。
マクロ経済政策の選択肢は、財政政策と金融政策しかない。1990年代末には、外資アナリストらが「日本の財政破綻」を警告し始めていた。消去法的に金融政策に期待するしかない状況に追い込まれた。世界的なマクロ経済学の潮流も金融政策への期待を高めた。
クルーグマンの提言(1998)
バブル崩壊後、金融緩和に転じ、短期金利(無担保コールレート)は1995年10月に実質ゼロになった。「名目金利がゼロ下限に達したときにどのような金融政策で対応すべきか」(デフレ論争)が主要な論点となった。クルーグマンはエッセイ「Japapan's Trap(1998)」で「人々の期待に直接働きかける金融政策」を実施すればよい、と新説を提言した。彼の提言は、日本だけでなく世界の経済政策の潮流にも影響を与えた。
リフレ論争
クルーグマンの提言に端を発する金融政策を支持する人々はリフレ派(再びインフレを起こす、リフレーション)と呼ばれた。
2002年から始まった量的金融緩和は貨幣数量説(PY=MV)を根拠としている。Y(実質GDP)とV(貨幣の流通速度)がほぼ一定ならばM(マネタリーベース)を増やせば、P(物価)が上昇するはずだ。しかし、20年間、物価は上昇しなかった。Vが低下したと考えるしかない。人々が貨幣量Mの増加を将来のリスク増加と感じたから、貯蓄にまわしてしまった、と考えるしかない。
リフレ派は「消費税増税と財政政策が足りなかったことがリフレ政策の効果を減殺した」と主張している。しかし、もともと1990年代に財政政策が限界に達したので、金融政策に軸足を移すことが政策当局とエコノミストの潮流になったことを忘れている。
財政政策の不足で景気が下向きになるのであれば、2000年代に入っても財政拡大を継続すればよかっただけだ。もともとゼロ金利環境では財政政策しかないというのが古典的教科書の処方箋だった。しかしそうはせず、金融政策に軸足を移したのはリフレ派自身であったことを忘れている。
もちろん、ゼロ金利環境の財政政策も「需要不足の穴埋め」にしかならない。経済成長率を恒久的に引き上げるような効果はない。結局、20年にわたるリフレ論争が示していることは、財政政策や金融政策というマクロ経済政策は日本の低成長を脱却するための魔法の杖にはならないという、もともと分かっていたことの再確認にすぎないのではないのだろうか。
景気対策としての財政出動ではなく、税を誰からどれだけ徴収し、誰に何のために再配分(財政支出)するかという、本来の財政改革が日本に残された最後の処方箋ではないだろうか。
新しい財政政策論の問題点(FTPLとMMT)
FTPL (Fiscal Theory of Price Level: 物価水準の財政理論)
現在発行されている政府債務は、将来の財政余剰(税収ー歳出)のフローによって返済される。当年度だけでなく遠い未来までを勘定に入れるので、これを「政府の通時的な予算式」という。
D=Ps
Dは現在の政府債務の名目規模、Pは現在の物価水準、sは政府がこれから将来にかけて得る利益(財政余剰)の割引現在価値。将来の政府債務が無限大に膨張しない限り、現在の政府債務は遠い未来には財政余剰で帳消しになっているはずなので、この式が成立すると考える。
伝統的解釈: P(現在の物価水準)とD(現在の政府債務)はすでに決まっている。そこから、今後の財政政策で目標とすべきs(未来の財政余剰)が決まる。ということは財政支出を拡大するか緊縮するかが決まる。
物価が高ければ拡大する(未来の財政余剰が減る)。低ければ緊縮する(未来の財政余剰が増える)。高物価 ➡ 財政拡大、低物価 ➡ 財政緊縮。
FTPLの解釈: 現在のD(政府債務)に対してs(未来の財政余剰)を変えればP(物価)が変わる。財政支出を拡大して財政余剰が縮小すれば物価が上がる。逆に緊縮すれば財政余剰は拡大するので物価は下がる。財政拡大 ➡ 高物価、財政緊縮 ➡ 低物価。つまり、伝統的解釈と因果の順序が逆転している。
FTPLの解釈は「デフレで財政出動すれば景気が持ち直す」というケインズ経済学の伝統的主張と一致する。しかし、1990年代の日本で、財政出動を10年間続けたが、効果がなかったことを忘れてはいけない。
国民の気分(=将来予想)が変わらなければ物価は変わらない。ところが過去30年間、財政政策であれ金融政策であれ、マクロ経済政策で人々の気分は変わらなかったではないか。
不良債権問題が解決している2020年代の日本であれば、ある程度は機能するかもしれないと筆者も考える。しかし、失われた30年の日本経済の構造劣化の解明と構造改革の努力なしに、財政拡大だけに頼るのは危険すぎるとも考える。財政拡大がダメなら金融緩和、それがダメならまた財政拡大の繰り返しでは、そのあいだにも政府債務が膨張し続けるからだ。
MMT(Modern Monetery Theory)
国債増発を続けると、いつか民間(家計や企業)が買えなくなるので、その時点で財政破綻する、というシナリオを否定するのがMMTだ。この問題は「国債残高が民間の金融資産を上回ることはあり得るか?」という問いに言い換えられる。この点に関しては、MMTの主張が正しいと筆者も考える。つまり、国債残高が民間の金融資産を上回ることはない。
政府がX円の国債を発行し銀行に売る。銀行は、自行の政府口座にX円を振り込む。銀行のBS上では、資産にX円の国債、負債にX円の政府預金が増加する。これは貸出による預金の創造を政府相手に行っただけだ。
次に、政府は財政政策でX円を民間に支払う。民間の資産がX円増え、同時にどこかの銀行の預金X円になる。政府支払いでX円の政府預金は無くなるが、民間の預金がX円増えるので、銀行全体で見れば政府預金が民間預金に移動しただけになる。国全体では、国債で増加する資産と負債はバランスし続ける。だから、民間資産が不足して国債が発行できなくなるということは起きない。
MMTの問題点は2つある。
(1)MMT論者は「よって、インフレになるまでは財政支出を増やし、インフレになってから増税等で抑え込めば良い」と主張する。財政持続性の議論が棚上げになっている。
そもそも国民のあいだに財政持続性の不安がないのであれば、その主張に何も問題はない。しかし、問題は国債発行の会計理論ではなく「財政持続性」のはずだ。ところが「財政は破綻しないのだから、 MMTを信じて財政拡大せよ」と言う。これまたエコノミストの傲慢ではないだろうか?
(2)財政拡大すればインフレになるというのはFTPLと同じであり、伝統的ケインズ経済学とも同じだ。しかし、1990年代から政府債務が膨張し続けている。財政拡大は30年間続いたのだ。「効果がないのは、やりかたが足りないからだから、もっとやれ」というのは、リフレ派の金融政策の主張を、財政政策に言い直しただけだ。
結局MMTもまた、マクロ経済政策で国民の気分を操作することに囚われている。政策当局とエコにミストは視点を変えて、歳入分担と歳出配分を徹底的に見直すという意味の財政改革に真剣に取り組むべきだ。