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【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p38-55

レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017

 大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。

第一部 同と他

A 形而上学と超越

1 見えないものへの渇望

p38-39: 形而上学は、私には手の届かぬ「他なるもの」を思考したいという渇望として顕れる。一見「他なるもの」と見えても、私によって思考されることで、私に取り込まれてしまう、そのようなものは、すでに渇望の対象としての「他なるもの」ではない。

p40: 〈渇望されるもの〉が渇望を充すことはなく、さらにそれを穿ち深化するのである

p41: 寛大さは〈渇望されるもの〉によって養われる。
 寛大さとは、渇望しながらそれが決して手に入らないという事態を受け止めることだからだ。
 たとえば、私には私の死を理解する術が閉ざされている。今のままの自分が不在となることが死だからだ。しかし、それでも我々は畏れつつ生き続けている。これが死への寛容だ。平気で死ぬことではなく、平気で生きていることが死への寛容だ。
 かといって我々が死と無関係であるというわけではない。我々は死と避け難く関係している。死に限らず〈他なるもの〉との関係はこのようなものであるはずだ。

p42: このように〈渇望されるもの〉は、我々が決して手に入れることができないという事態によって、〈より高きもの〉という位置付けを獲得する。

 もちろん、どうせ手に入らず、理解できないとわかっているものについて、あれこれ考えても仕方ないではないか、とも言えるだろう。けれどもこのことは、渇望がなんら行為を必要とせずに可能であることを意味しているのではない。ただ、必要とされる行為は消費でも愛撫でも、儀礼でもないということであるにすぎない。

p43: 人間のこの悲惨 ~ さまざまな事情と悪意とが人間にふるいうる支配 ~  この動物性については、疑う余地がない。けれども人間であるとは、ことの消息がそのようであるのを知ることである。自由とは他方、自由が危険な状態にあるのを知ることにある。さらに、知り、意識をもつとは、非人間性が到来する瞬間を回避し、それに先んずるために時間を有していることである。(人間性に対する)裏切りの時を、このようにして不断に繰り延べることが、人間と人間ではないものとのあいだの微かな差異なのであって、その繰り延べは、善さという、関心からの離脱を前提している。絶対的に〈他なるもの〉 への渇望を、高貴さを、形而上学の次元を前提としているのである。

 さきに述べたように道徳に象徴される主体性(やましさを感じ、裁きを畏れること)は戦争に象徴される動物性の前に結局は無力だ。しかし動物性の到来を、避けがたいと知りつつ繰り延べることで、ここまで人間が人間であり続けてきた。だから、このように、手に入らないものを渇望し続けるという、祈りに似た行為が大きな意味を持っている。そういうことではないか?

2 全体性との絶縁

p43-45: 本書では私の手が届くもの、理解できるもの一切を〈同〉と呼ぶ。私が関心を持ちつつ手の届かぬもの、理解不能なもの一切を〈他〉と呼ぶ。そうすると、私には〈同〉と〈他〉しかないので、〈同〉と〈他〉の関係を外部的に記述する「外部」がもはやない、という状態にいたる。
 この状態にあって、それでも両者の関係が記述できると言うならば、そこに記述されたものはすでに〈同〉の一部になってしまう。つまり両者の関係は絶対に外部的に記述できないという特徴がある。
 この独特な関係性は〈同〉の起点が〈私〉だということに起因している。

p46-47: 私は、自分のことを他人のように見ることがあるだけでなく、時とともに変容するのだが、それもまた私だ。

p48-49: 私というものの境界は、私が暮らす世界全体に及ぶ。

・・〈私〉と世界とのあいだになりたつ真に本源的な関係は、世界のなかで〈私〉が滞在することとして生起する。その関係において〈私〉はまさしく、とりわけて〈同〉としてあらわれるのだ。世界という「他なるもの」に抗する《私》のふるまいかたはむしろ、世界に滞在すること、つまりわが家として世界内に存在しながらみずからを同一化することにある。

・・じぶんにとって外的な大地のうえでみずからを支え、・・なにかをなしうる身体として世界に住まうのである。

・・いっさいはある意味でこの場所に存在しており、すべては最終的には私の手が届くところにある。星辰さえも、ほんのすこし計算し、私とのあいだに介在するものを測り、手段を考量しさえすれば、私の手に届くものとなる。

p50: 〈同〉とは私が引き受ける世界の一切合切だ。元々は〈他〉であった世界が、どうしてこのようなことになるのだろうか?

p51: 〈 同〉と〈他〉は互いに境界がなく、侵害もしない関係性であるはずだ。境界や侵害を認識できるということは、それらはすでに〈同〉であることになるからだ。

p52: 絶対的に〈他なるもの〉とは〈他者〉である。〈他者〉は〈私〉に加算されることがない。「きみ」あるいは「私たち」と私が語るような共同体は、「私」の複数形ではない。

・・いわば共通の祖国が存在しないことによってこそ〈他者〉は〈異邦人〉となり、その〈異邦人〉がわが家をかき乱すことになるのだ。とはいえ〈異邦人〉は自由な人間をも意味している。〈異邦人〉に対して私は、権能をふるうことができない。私が〈異邦人〉を操作しようとしても、〈異邦人〉の本質的な側面は私の掌握を逃れる。〈異邦人〉は私の場所を全面的に占めるわけではないけれども、〈異邦人〉と共通する概念をもたないこの私にしてもやはり、〈異邦人〉とおなじように類を欠いて(何かに所属することのない個として)存在していることになる。このことが、私たちはそれぞれ〈同〉と〈他〉であるということだ。

p53: 私〈同〉と他者〈他〉は何も共有しない。隔絶した両者がとりむすぶ関係が「対面」と「語り」だ。

p54: 私たちが超越 (渇望、つまり満たされぬ関心) というこの関係を認識するのは、ひたすらその関係を遂行する (対面と語りを実践する) かぎりにおいてである。超越という関係は、(対話と語りの)遂行によってのみ可能であるだけにますます驚くべきものとなる。(絶対的〈他〉という)他性は私を起点として(私が対話と語りを実践する場合)のみ可能なのである。

私が対面せず、語りかけないならば、他者特有の他性は生じない。

p55: 思考によって全体性 (=主体性を剥ぎとること) から距離を置くことはできない。たとえば「Aさんはこういう人だ」と思考した瞬間から、思考されたAさんは、私が思考したAさんであって、主体性を剥ぎ取られたAさんだからだ。

 Aさんと対面し対話することで、私はAさんを私の思考に位置づけることに常に失敗し続ける。そこで初めて、私の全体性にほころびが生まれる。

 歴史 (=記憶))とは、私が主体性を剥ぎとった〈他〉の墓場だ。〈他〉による拒絶がないかぎり、私〈同〉は自力でこのような全体化を止めることができない。


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