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【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p126-142

レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017

 大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。


B 分離と語り

4 レトリックと不正

 〈他者〉の「顔の現前と語り」を迎え入れることで、〈同〉に意味(あらたな差異)が付け加えられる、つまり、迎え入れた語りは「師の言葉」となる。しかし、このメカニズムは、〈同〉が迎え入れたものすべてが本当の「師」であることを保証するわけではない。

p126: たんなる対象であるような相手や・・群衆・・子供に教育するような、あるいは洗脳するような語りはレトリックなのであって、それは隣人を策略にかける者の立場に立つものである。

 レトリック(洗脳、煽動、教育)の特徴は対話の欠如だ。対話者として対面することなく、あざむき手として、説教者として群衆に語りかけることだ。

p127: レトリックがともなう洗脳を、煽動を、教育を放棄することは、他者に正面から、真の語りをかいして近づこうとすることである。・・他者が顔において現前していることである。・・このように語りにおいて正面から〈他者〉に接近することを正義と呼ぶことにしよう。

p130: 私たちの師(私が迎え入れる対話者)である他者との関係が真理を可能にする・・。正義とはつまり、他者のうちに私の師をみとめることにある・・。だから・・レトリックを超え出ることが正義と一致するのである。

 真理とは存在ではなく、関係であると言い、「かたち」を不断に解体しつづける「顔の現前と語り」であると言った。その立場にたつならば、互いに語り返す関係のないところに真理はない。

 正義とは、対話者同士が互いに師(迎え入れるべきもの)として遇することだ。人々を群衆とみなし、対話を避け、一方的に教化しようとする行為を正義とは呼ばない。

5 語りと倫理

 「思考」があるから「語り」があるのか、「語り」があるから「思考」があるのか。近代西欧哲学は「思考」が「語り」に先行する、つまり「語り」は「思考」の結果、その道具として生じる、と考えてきた。本当にそうだろうか。もしそうであれば、「思考」はなぜ「語り」という道具を必要とするのか。

p131: 思考の共通性は(もし、そういうものが本当にあるのなら)、諸存在のあいだの関係としてのことばを不可能にしてしまっていたはずである。

p132: 一人称でことばを語る理性は〈他者〉にあてて語るのではなく、ただ独語するだけである。(であるならば、そもそもなぜ言葉が必要なのか)

p132: 表出の機能にあってことばが維持するものはまさに、ことばが宛て先として指定し、・・呼びかけ、・・祈りをもとめる他者にほかならない。

P133: ことば(ランガージュ:言語活動全体)が主観ー客観関係に還元不可能な(相互的な)関係を創設するのは、・・〈他者〉を掲示するからなのである。・・ことばは対話者たちを前提し、多元性を前提している。・・対話者たちの交渉が倫理なのである。

p134: べつの言い方をするなら、ことばが語られるのは、関係の諸項のあいだに共通性が欠けているところにおいてであり、共通平面が欠けており、共通平面をはじめてかたちづくられなければならない場所においてなのである。・・〈語り〉とはかくして、全体的に異邦的ななにものかをめぐる経験であり、純粋な「認識」あるいは「経験」であって、驚嘆という外傷となる。

 言葉がなぜ存在しえるのかという疑問の答えとして

〈同〉〜〈語り〉〜〈他者〉、かつ、〈同〉≠〈他者〉

という永続的関係が論理的帰結となる。この関係が永続的でないならば、いつか言葉は世界から消滅するはずだからだ。語りが〈同〉に意味(差異)をもたらす以上、つねに驚きという精神的衝撃が同時に生じる。

p134: 絶対的に異邦的なものだけが、私たちを教えることができる。そして、私にとって絶対的に異邦的でありうるのは人間のほかにない。人間だけが・・分類のいっさいに抵抗するからである。

 〈同〉に教え(意味=付け加えられる差異)をもたらすのは、人間のほかにない。世界を分類し、普遍化する人間の傾向性に、人間だけが抵抗するからだ。世界からこのような抵抗がなくなれば、あらたな意味や差異はもはや生じない。

p136: 科学と芸術による開示とは本質的にいって、始原的なもの(もともと因果不明に生じ、立ち現れるものごと)に意味作用をまとわせ、知覚を踏み越えることである。ものを開示するとはかたちによってものを照らし出すことであって、つまりは、ものの機能や美しさ(という目的)を知覚することで、全体におけるものの場所を見出すことなのである。

 もともと〈同〉(内的世界)は、無起源(みずからの因果もわからぬまま)に生じ、生まれたときも死ぬときも永遠に自覚できないままに、〈他〉(実世界)を還元しては引き受け直すという運動を続けている。〈同〉が〈他〉との関係で接触するのが「もの」だ。「もの」そのものも無起源だ。というのも、もとをたどれば、〈他〉が無起源で無限だからだ。

 〈同〉が「もの」を還元して〈同〉に取り込むと、意味作用(起源と目的)を与えられた「かたち」になる。科学や芸術による認識とは無起源な「もの」に意味作用を与えて「かたち」にすることだ。「もの」のなかに機能や美しさという目的を知覚し、〈同〉(内的世界)に「もの」の居場所をつくりだすことだ。

p136: ことばのはたらきは、まったくべつで・・いっさいのかたちを脱ぎすてた裸形と関係することである。・・私たちが光を投げかけるに先だって意味している・・裸形こそが顔である。

p137: 顔との関係は対象の認識ではない。

p138: 異邦人である他者の視線は懇願し、要求する。・・視線はいっさいへの権利をもち、贈与することでひとはこの視線を承認するからだ。・・こうした視線こそが、顔の顔としての顕現にほかならない。・・(顔の現前とは)「あなた」と呼びかけながらひとが近づいてゆくものに対して贈与することにほかならない。

 「対面」は、「かたち」に還元できない。〈同〉に対面する〈他者〉もまた〈同〉だからだ。対面する他者はその内的世界で何ごとかを要求したり期待している。しかし〈同〉と〈他〉は隔絶しているので、他者の要求や期待をどう受け取るかは私次第だ。要求や期待は誤解され、あるいは無視され、嘲笑されることさえある。顔の現前を、異邦人が裸形をさらすことに喩えるのも、それゆえだ。報われないかもしれない関心や期待を差し出すという贈与なのだ。

p139: 〈他者〉が現前するとは、私による世界の悦ばしき所有(享受)がこのように問いただされることにひとしい。・・(「もの」を「かたち」にするという)概念化も・・私の家という生きた肉に・・私のものが〈他者〉の要求に応じていることにおいて刻み込まれた、切り傷に由来しているのである。

 顔の現前は「報われないかもしれない他者の期待がそこにある」ことを私に告げ知らせる。応じるにせよ、無視するにせよ、騙すにせよ「他者の期待するそれとは何か?」というみずからへの問いが生じる。自問に答えようとすれば、私の内的世界の「もの」を譲渡可能な「かたち」にせざるをえない。つまり、概念化が生じざるをえない。

p139: 客観性は・・〈他者〉の顕現が前提されている。

 他者からの「報われないかもしれない期待」という贈与があればこそ、私の内的世界の概念化が生じる。つまり顔の現前によって、概念化が生じ、私の内的世界の「もの」が「かたち」をもち、「かたち」として贈与や取り引きが可能なエコノミーが生じる。

P140: 他者を承認するとは・・贈与によって共通性と普遍性を創設することである。ことばが普遍的であるのは・・私のものである事物を他者に提供するものだからである。

 他者を承認するとは、もともと私が聞く必要もないし報いる必要もない「他者の呼びかけ」に関心を向け、「お前の呼びかけるそれとはなにか?」と自問することだ。自問するやいなや、私に概念化が生じ、「もの」は「かたち」になり、「かたち」に言葉が与えられ、他者に譲渡可能になる。

他者の承認 ➡ 概念化 ➡ 言葉の普遍化 ➡ 贈与の循環

 顔の現前を受け入れることではじめて、私のまわりに、これらのことが一挙に生じる。

p142: ・・私が〈他者〉を迎え入れることこそが究極的なことがらなのであって、そこでものは、ひとが築き上げるものとしてではなく、ひとが贈与するものとして不意に到来するのである。

 近代西欧哲学は、おおまかにいうと、まず何らかの知覚が先行し、概念が生じ、言葉が生じ、倫理が生じる、といった機序を前提として、そのメカニズムを探求してきた。仮に宇宙に一人ぼっちで生まれたとして、言葉は無理にしても、概念化までは単独でなしとげられる。そのように考えてきた。

 しかしたぶん、それは違う。

  • 〈同〉: みずからが主体であることを知らない知覚の主体が生じる

  • 〈他者〉の現前という贈与: 異邦人として「報われないかもしれない期待や関心」(裸形)という贈与が私に向けられる

  • 〈同〉の承認: 他者の現前に関心を向けることも向けないことも私の自由、という状況のもと「お前の呼びかけるそれとは何か?」と関心を向け、みずからに問う

  • 〈同〉の概念化と言語化: みずからの問いにみずから答えようとすればその時点ですでに、実際に他者に返答してもしなくても、「もの」は「かたち」になり、「かたち」に言葉が紐づけられる

  • 普遍化: 人々(〈同〉と〈他者〉という〈同〉の相互ネットワーク)は、語りを介した贈与と承認の循環をつうじて普遍性を創設し共有する

つまり倫理(対話という贈与と承認の交換)は認識に先行している。

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