【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p56-73
レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017
大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。
3 超越は否定的なものでは(説明でき)ない
p56−59: 超越の運動 (手の届かぬものを渇望すること) は否定形で記述できない。「〇〇でないもの」と表現することは、すでに「〇〇」と「〇〇の否定」の合算である全体を私が手に入れていることだからだ。
たとえば、「完全」を渇望するものが、「不完全」と対比したところで、何ら「完全」に接近するわけではない。ただ、まっしぐらに「完全」を渇望するしかない。
このように否定性が役に立たない関係を形而上学的と呼ぶ。
4 形而上学は存在論に先だつ
p59-64: 近代西欧哲学の存在論は、共通の筋書きを持っている。「認識されるもの」と、それを「認識するもの」、両者を媒介する「感覚作用」この三つが結びつくメカニズムを解明する、という筋書きだ。しかし、この時点ですでに「認識されるもの」は私の認識の手中にある。だから、「決して手に入らぬものを渇望すること」はすでに存在論のスコープから外れている。
認識がすでに手中にしているもの全てに対して、いかに認識を張り巡らせ、組み替えても「認識の手中にあるものはすでに認識されている」ことを深く確認し続けるにすぎない。
西欧哲学は、これまでのところおおむね存在論であった。すなわち、存在了解を保証する中立的な中間項の媒介(感覚作用)によって〈他〉を〈同〉 に還元してきたのである。
一見〈他〉の探究に見えるものも、結局、〈同〉が〈同〉を探究することに戻ってしまう。近代西欧哲学は〈他〉を探究したことがないのだ。
p65-67: バークリー、フッサール、ハイデガーの存在論への批判。意味不明。
p68: 存在論として作動するような存在との関係は、・・〈他〉を〈同〉に還元することである。・・(存在論の)自由とは、・・むしろ〈他なるもの〉を抑圧し所有することである。
p69: 所有とは、〈他〉が私のものとなることで〈同〉と化する、際立った形式である。
結局、近代西欧哲学は、〈他〉を〈同〉に還元することで、〈他〉の探究を消しさり、「正しいことは誰にとっても正しい」という全体主義、普遍主義を生み出し、戦争と政治的暴力を理性の名のもとに基礎づけてきた。
p70: 権力の哲学、つまり〈同〉を問いただすことのない第一哲学としての存在論は、不正の哲学である。・・
p71: 諸項の(〈同〉が〈他〉に先行するという)順番を逆転させなければならない。 ・・本書の努力は、語りのうちに他性に対するアレルギーのない関係を見てとり、〈渇望〉を見てとることにむけられる。・・具体的に言えば、匿名的な共同体のうちで、それでもなお《私》と〈他者〉の社会を、ことばと善さを維持しようとすることである。
p72: 存在論が不可能なのは、存在一般の理解が〈他者〉との関係を支配することは不可能であるからである。
p73: 「〈他者〉に対して語ること」・・が、いっさいの存在論に先立っている。・・存在論(認識=感覚作用=対象の一致))は形而上学(手の届かぬものへの渇望)を前提にしているのである。
私の目論見は、私と他者との関係、つまり倫理が、非人称的な「正しいことは誰にとっても正しい」という近代西欧的な真理の概念に先立つものであること、対話が認識に先立っていること、哲学的に言うと、形而上学 (手の届かぬものへの渇望)が、存在論 (認識=感覚作用=対象の一致) に先立つものであることを、何とか説明しようとするものだ。