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【社会のモノサシ】 レヴィナス 「全体性と無限」 p102-111
レヴィナス「全体性と無限(上)」1961
岩波文庫、第9刷、2017
大事なことが書いてある気はするのですが、歯がたちません。勉強のために数ページごとに要約しています(ページ数は岩波文庫による)。太字は原文のまま。
B 分離と語り
2 真理
P102: 分離や自己性が、幸福の享受のなかで本源的にはどのように生起するのか・・は、あとで示されることになる。・・私たちが無神論と呼ぶことにした、こうした絶対的な・・自存性は、エコノミー的な存在のしかたが有する、具体的な豊富さの全体をつうじて達成されるのである。
あとで深堀りすることになるが、私が〈同〉(=内的世界)で生きるのに必要なことは〈他〉への働きかけと〈他〉からの応答という循環(〈同〉による〈他〉の一方的還元)だけだ。
この関係は、〈他〉が〈同〉の働きかけに応答するかぎり、〈他〉が実際にはどのようなものであるかとは関係なく成立する。極端な話、〈他〉がまったく応答しない場合(=虚無)ですら、〈同〉はそれをもとに内的世界を創ることができる。このような〈同〉のあり方を、分離と呼び、無神論と呼び、自存性と呼ぶ。
とはいえ、このような関係が可能になるためには、〈同〉の一方的還元が遂行可能であること、つまり〈私〉が生きていることが前提となる。 生きることに必要な何ものかが欠けているならば、生きていないはずだから、生きているという事実が、生きるのに必要な何ものも欠けていないことを示している。だから生きて内的世界を味わうことを「(幸福の)享受」と呼び、それは生物として生きていることだから、エコノミー的存在とも呼ぶ。
このように考えると、一見、分離よりも享受が先行しているように勘違いするが、事態は全く逆だ。以下、逆転の経緯を説明し、その結果、真理が享受に先行する可能性を示す。
P103: 〈同〉が〈他〉とふたたびむすびあうことが可能であるのは、・・真理の探求という危ういこころみを冒すことによってだけなのである。分離が存在しなければ真理はありえなかったであろうし、存在以外のなにものもありえなかったことだろう。
「存在と認識の一致」という近代西欧哲学の伝統的な真理の概念は、分離(=〈同〉による〈他〉の一方的還元)によって消滅する。分離によって、真理とは「誰がどのように〈他〉を還元しようとも、誰にとっても一致するものは何か」という、原理的に決定不可能な問いに変わってしまう。
逆にこのような〈同〉と〈他〉の分離が存在しないならば、〈同〉=〈他〉となる。つまり「認識=存在」となるのだから、「存在と認識の一致」を問う意味はなくなる。認識したものはすべて存在しているのだから。
p104: 一箇の存在は、・・自己からその存在を引き出し、自存的に存在しなければならない。・・それはたしかに、罰せられることのない罪のすべてが生じうる可能性である。けれどもそれは内部性であることの代償であり、内部性であることは分離されていることの代償なのである。内部的な生、〈私〉、分離は、根を持たないことそれ自体であり、融即しないことであって、したがってまた誤謬と真理との両義的な可能性である。
分離によって融即(世界が存在するゆえに、私がその一部として存在すること)は不可能となる。分離のもとで、存在とは内的世界に存在することしかありえないのだから、存在と認識は一致するに決まっている。近代西欧哲学的には、何でも真理となる。言い換えれば、真理は決定不可能となる。では、決定不可能な真理をなぜ探求することになるのか?
p105: 真理の探求をみちびく外部生の観念は、〈無限なもの〉(=〈他〉)についての観念としてのみ可能であるからだ。
P106: 無限なもの(=実世界)は認識の「対象」ではなく、・・渇望されるもの、〈渇望〉を引き起こすものである。
〈同〉が〈他〉を一方的に還元する以外に〈同〉は〈同〉たり得ない。といことは内的世界が生じるためには、実世界を探求する以外に方法がない。人が(内的世界に)生きるとは、実世界の探求そのものだ。それが真理であるかどうかは一旦棚上げして、このような探求を〈渇望〉と呼ぶ。
p107: 分離された存在は充たされ自立しているにもかかわらず・・欲求という欠如によって駆りたてられたものではなく、・・他なるものを探しもとめる。そうした状況がことば(ランガージュ=言語活動)なのである。真理が生まれるのは・・他者にことばを語る場においてである。
人は生きているという事実によって、今、生きるに必要な何ものも欠けていないことを証明(=幸福を享受)している。だから〈他〉を探求する、つまり〈同〉が〈他〉を一方的に還元することは、生きるうえで不足するものを充足するという意味の欲求ではない。欲求が生じるためには、今、生きていないといけないし、生きているということは内的世界に生きているのであって、その内的世界は実世界の一方的還元によって生じるのだから、欲求にはるか先行して、渇望(=〈他〉の探求=無限の探求)が遂行されていることになる。
渇望によって生じる内的世界は、分離の無神論によって「何でもあり」の世界だ。その何でもありの渇望が「真理の探求」という色合いを帯びるのは、他者との語り以外ではありえない。なぜならば、分離を前提とした真理の概念とは「誰がどのように実世界を一方的に還元しまくったとしても、一致するものは何か」という決定不可能な問いで問われるものだからだ。真理が決定不可能であるとしても、真理の探求は他者との言語活動なくして生じえない。
内的世界に生きる以上、実世界の探求は必ず生じる。
私たちは、日ごろ内的世界に引きこもっているのであり、そこに亀裂が生じるのは「顔の現前と語り」のときだけである以上、真理が探求可能となるのも、そのときだけだ。
p110: ・・〈渇望〉は、絶対的にエゴイズムをまぬがれている。その名は正義である。
欲求よりも渇望が先行している。つまり、生物的に生きるための欲求を充足する以前に、そもそも私たちは内的世界に生きている必要があり、内的世界は実世界の探求によって生じる。だから極端な場合は、真理のために、つまり他者の現前と語りのために、自らの命を危険にさらすことさえできる。