雑感『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『Chime』
*この二つの作品は、渋谷「WHITE CINE QUINTO」でなぜかプログラムが連続しており、日をまたいで鑑賞した(「GHOST~」は草薙素子役の田中敦子さん追悼の緊急上映。ご冥福をお祈りします)。
さて、まったくつながりがないような2作品だが、上記のように偶然、鑑賞時期が重なったこともあってか、共通する点が見えてきた気がする。それは、「お仕事映画」であるということだ。
「GHOST~」の主人公・草薙素子は、公安9課(攻殻機動隊)に属する(いちおう)公務員である。同時に特Aクラスのハッカーでもあるのだが、彼女の「仕事」に踏み込む前に、まずは本作の設定をふまえる必要があるだろう。
2029年の日本を舞台にした本作は、第三次および第四次大戦後の世界を描いており、軍事技術を応用した「電脳化」が広まっている。
「電脳化」とは脳に電子チップを入れるようなもので、正確にはマイクロマシンを脳に注入し、神経細胞と癒合させるらしい。生身の脳と機械のハイブリッドである「電脳」は外部記憶装置と通信機器を兼ね、記憶の外在化、ネット経由での情報検索や通信を可能にする。
現代のわれわれの多くがスマホを持つように、2029年に生きるほとんどの人はカジュアルに電脳化し、ネットに常時接続している。その結果、皮肉にも外部から自分の「電脳」をハッキングされる危険性を背負っている。当然、他人の「電脳」にある情報を狙う犯罪者も存在する。草薙はハッカーとしての優れた能力を駆使して、これら犯罪の抑止と未然防止(往々にして武力行使を伴う)に従事している。
電脳と並んで、やはり軍事技術由来の「義体化」も一般的になっている。「義体」は「義手」「義足」のように、もともとは欠損部位を補う目的で発達をとげたのだろう。四肢にかぎらず、この時代では目や耳、内臓も含め、全身を人工パーツに置き換えることが可能のようだ。また、体の一部もしくは全身を機械化することは、人間を超えたスーパーパワーの発揮を可能にする。草薙のボディーは圧倒的な身体能力を誇る特注の全身義体で、生身の部分は脳と脊髄の一部だけである。
このように、草薙は「電脳」と「義体」の技術の粋を集めた、すご腕のハッカーであり、最強のサイボーグであるわけだが、「電脳」と「義体」は同時に犯罪者たちにも利をもたらす。
結果、高度な情報戦と、銃器や兵器を用いたテロ行為が横行する。公安9課は敵対勢力に対抗し、主に国益を守る攻勢組織であり、部長の荒巻の下、草薙が陣頭指揮を執る。
現場指揮官としての草薙が「エスパーより貴重」な人材と称されるのは、その圧倒的な身体能力と戦闘力、判断力、統率力、高度なハッキング・スキル、情報収集および処理能力に加え、「ゴーストのささやき」と呼ばれる要素によるところが大きい。
「ゴースト」とは「魂」のようなもので、その人の自我、心と言っていいだろう。なので「ゴーストのささやき」とは、「直感」や「真理を感じ取る力」といったところだろう。草薙はこの「ゴーストのささやき」を何よりも重視している。なぜなら、ハッキングや武力の行使は相対する犯罪者などと同じ手口であり、使い方の指針がなれば、あっという間に悪に堕してしまうからだ。
「正義」という言葉に置き換えるのは難しいが、「ゴーストのささやき」はある意味では「良心」と呼ぶべきものかもしれない。超高度に発達した科学技術万能の時代に、草薙は自分の生身の脳で判断を下し、行動する。
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デカルトは心と身体を別物として扱ったわけだが、電脳と義体は人体を機械や人形へと近づけ、人の心や魂(ゴースト)の所在を「脳」と確定するに至っている。この時代でも、AIは人格を持つまでには(まだ)発達していないし、電子パーツである「電脳」には(まだ)ゴーストは宿らないからだ。
一方、人の「記憶」は情報として外部記憶装置である電脳に保存されている。そのため、草薙のような特Aクラスのハッカーであれば、原理的には他人の電脳に侵入し「ゴーストハック」することで、その人本来の記憶を消し、偽の記憶を埋め込むことができる。言い換えれば、その人の人格を支えるバックグラウンドを改変・破壊することができる。たとえ生身の脳みそに「ゴースト」が残っていても、記憶とのミスマッチが生じれば人格は崩壊する。脳(ゴースト)と電脳(記憶)は、表裏一体なのだ。
ゆえに、「ゴーストハック」は電脳倫理侵害の重罪に位置づけられている。実際に、本作では国際手配中の「人形使い」と呼ばれる謎のハッカーが、他人の電脳をゴーストハックして操る事件が発生する。公安9課はその対応に追われていたーー。
ここからは実際のシーンを見ていこう。
人形使いに偽の記憶を植えつけられた被害者を、草薙は取調室の外からマジックミラー越しに眺めている。隣には同僚のバトー(義眼の大男。同じくサイボーグ)がいる。カットが変わり、バトーが話し始める(ミラーには草薙の顔が映っている。草薙のボディーが全身義体であることは先述のとおりだが、その顔は規格品であり、草薙本来の顔ではない)。
バトー:疑似体験も夢も、存在する情報はすべて現実であり、そして幻なんだ。どっちにせよ、一人の人間が一生のうちに触れる情報なんてわずかさなもんさ。
被害者は独身男性だが、人形使いにより家族持ちという記憶を植え付けられている。こののち、被害者は「愛する娘」の記憶と独り身の現実とのギャップを抱え続けなければならない。記憶は改変することはできるが、元に戻すことはできないからだ。
記憶は不可逆で、はかないものだ。そして記憶に支えられる現実もまた、ちょっとしたことでゆらぐ幻のようなものだ。バトーの述べる人間観は切ない。
草薙はその場では何も言い返さず、場面は二人の非番の日に替わる。
高層ビルが望める沖合へクルーザーを出し、草薙はダイビングをする。
フローターを作動させ浮上するとき、夕日に染まった海面がやはり草薙の顔を鏡のように映す。二つの顔が正対する。だが、まさに海面に触れなんとした瞬間、像は崩れ去ってしまう。
夜、クルーザーの甲板で、草薙とバトーは缶ビールを傾ける。
バトー:なあ、海へ潜るってどんな感じだ?
(中略)
草薙:恐れ、不安、孤独、闇ーー。それから、もしかしたら希望。
バトー:希望? まっくらな海の中で?
草薙:海面へ浮かび上がるとき、今までとは違う自分になれるんじゃないか。そんな気がするときがあるの。
バトー:……おまえ、9課を辞めたいんじゃないのか。
草薙の抱えるオブセッションは、全身義体のサイボーグであることのジレンマから発生している。ストーリーを先取りして引用すると、以下のようになる。
草薙:もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、いまの自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いや、そもそも初めから、私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。
草薙にも9課に入る前の記憶はある。おそらく軍人として先の大戦でも戦果を上げたのだろう。9課のメンバーのほとんどはそのころのつながりがあるようだし、みな彼女を「少佐」と呼ぶ。
しかしそれ以上の生い立ちは、少なくとも観客に対しては詳らかにならない。それは彼女自身のジレンマに直結する。すなわち自分の記憶が疑似的なもので、自分自身はいわば「お仕事マシーン」として誰かに作られたものなのではないか、という疑いである。
海の上での場面に戻ろう。「9 課を辞めたいんじゃないか」というバトーの指摘は、ある意味で図星を指している。
草薙:(フッと苦笑する)バトー、あんたの体、どこまでオリジナルだっけ?
バトー:よっぱらったのか? おまえ。
草薙:便利なものよね。その気になれば、体内に埋め込んだ化学プラントで血液中のアルコールを数十秒で分解して、しらふに戻れる。だからこうして待機中でも飲んでいられる。
それが可能であれば、どんな技術でも実現せずにはいられない。人間の本能みたいなものよ。代謝の制御。知覚の鋭敏化。運動能力や反射の飛躍的な向上。情報処理の高速化と拡大ーー。電脳と義体によって、より高度な能力の獲得を追求したあげく、最高度のメンテナンスなしには生存できなくなったとしても、文句を言う筋合いじゃないわ。
バトー:俺たちは、9課に魂まで売っちまったわけじゃないんだぜ。
草薙:確かに退職する権利は認められてるわ。この義体と記憶の一部を、つつしんで政府にお返しすればね。
この会話からわかるのは、「草薙素子」「少佐」としての記憶(電脳)、そして肉体(義体)が、職場(9課≒政府)にがっちりと握られていることだ。
公安9課は国益のための攻勢組織であると先に述べた。暴力をもって犯罪の芽を摘むのがその使命だ。草薙にとっては組織の目的と自らの発揮すべき能力が、完全に一致している。最高の適職と言っていいかもしれない。
しかし、それだけに「自分とは何なのか」という古典的なジレンマにもおちいりやすい。あまりにも仕事と自分が一致しすぎているのではないか。職場から与えられているものが多すぎはしないか?
自分が自分であるために、本当は何が必要なのか。草薙は自問自答を続ける。
草薙:人間が人間であるための部品がけっして少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なの。
他人を隔てるための顔。それと意識しない声。目覚めのときに見つめる手。幼かったころの記憶。未来の予感。それだけじゃないわ。私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し……そして同時に、私をある限界に制約し続ける。
自分が自分であるために「驚くほど多くのものが必要」というのは、先の取調室のシーンでバトーが「一人の人間が一生のうちに触れる情報なんてわずかさなもんさ」と言ったことへの反応、もしくは反論とも言えるかもしれない。
しかし、たとえば「顔」「声」「手」は全身義体である草薙にとってオリジナルではない。「記憶」すら怪しい。そんな自分に「未来」なんてあるのか?
たしかに電脳は膨大な情報やネットの広がりへ自分を拡張してくれる。そこに彼我の境を見いだすことができるかもしれない。しかしそれだって「仕事」のためにアクセスしているではないか。
自分が得意なこと、自分にとって意義のある仕事を続けていると、仕事そのものが「私」になってしまう。それは心地よくもあり、きわめて息苦しい状況でもある。たとえば、先に彼女が言及した化学プラントによるアルコール分解も、仕事のための機能だ。休むこと、リラックスすること、プライベート、そして草薙が何より重要視する「ゴーストのささやき」も含め、すべてのリソース(「多くのもの」)が仕事のために使われている。
草薙の現状においては、自分が自分であり続けることと、仕事をすることがほぼ同義になってしまっている。だから、そこから抜け出したいと考える。しかし、どうやって? 草薙はおそらく電脳がアクセスする「情報やネットの広がり」のなかに「私」が拡張していっても、ある限界が私自身を保持してくれる、「仕事をする肉体」からの脱出が可能なのではないか。そう「予感」している。
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「Chime」の主人公・松岡は料理教室の講師である。しかし、「GHOST~」の草薙と対照的に、松岡は自らの仕事や地位に飽き足らず、あるビストロにシェフとして迎え入れてもらうため、面接を重ねている。
また、松岡はどうやら家庭においても、妻と中学生の息子との関係が不自然で、特に妻は精神に異常をきたしているのではないかと疑われる描写が見られる。
本作は不確かなプロットとおどろおどろしい演出により、虚実が不明瞭だ。しかし「職場」と「家庭」に限ってみれば、上記のように意外とシンプルに松岡のミドルエイジ・クライシスを描いていると考えられなくもない。
つまり、松岡は転職活動に「これがうまくいけば、自分の能力を存分に発揮できるようになるし、家庭生活も好転するに違いない」と過剰な期待を込めているのだ。そして、期待は不安の裏返しでもある。大きなストレスを抱えながら、松岡は料理教室と家庭を行き来しているのだろう。
松岡の教室には田代という、おそらく統合失調症を患らう青年が通っており、時折とっぴな言動(「僕の脳の半分は入れ替えられて、機械なんです」)や行動をとるが、松岡は軽くいなすように対応する。
この松岡の「塩対応」がトリガーになったのか、ある日、この青年がショッキングな行為に走るわけだが、いわばこれは狂気の上書きのようなものではないだろうか。
つまり、松岡が抱えている過度なプレッシャー、精神的抑圧と不調が、よりあからさまな田代の狂気により上塗りされ、表面化してこなくなってしまう。以降、主人公である松岡の心の動きのようなものを、観客はうまくたどれない。続発する異様な出来事に対する、松岡のその場その場でのリアクションだけが強調されていく。
主人公の心の動きといえば、件のビストロの面接において先方から「料理教室の先生は続けるのですね?」と聞かれたとき、松岡は「料理教室に未練はない」と答える。
これに対し、先方はけげんそうに「先日は、料理教室のお仕事に誇りをお持ちとお聞きしましたが……」と打ち返す。松岡はあわてて「そうでしたか。そのときは何か妄想にとらわれていたのでしょう」ととりつくろう。
我々観客は前回の面接の内容を知りようもないので、上記のやり取りから推測するしかないが、松岡の言動に一貫性がないのは精神の病によるものかもしれない、と思わされる。しかし、じつはこれがミスリードなのかもしれない。
たとえば前回の面接のとき、「料理教室のお仕事はどうですか?」と聞かれたとして、プレッシャーで舞い上がっていた松岡は、「後進を育てることに誇りを持っております。貴店に招かれても講師は続けるつもりです」くらいのことは口走ったかもしれない。そして、それっきり自分が言ったことを忘れてしまったのだとしたら……。
たしかに二度にわたる面接の場面だけを切り取れば、松岡はかなり奇妙だ。自信満々に周りにも響くような声を上げ、虚勢を張っているように見える。
しかし、上記のように極度に緊張して「あがっている」としたらどうだろう。それほど奇妙には感じなくなるのではないか。緊張していると、しばしば思ってもいないようなことを口走ってしまうし、思ってもいないようなことは忘れてしまうものだ。
もっと恐ろしいのは、本当に思っていることでも忘れてしまうことだ。料理教室への誇り、「料理は心を安らげてくれる」といった発言は、松岡の心の底から出てきたものかもしれないのにだ。
黒沢監督は本作に、「幽霊の怖さ」「自分が人を殺してしまうのではないかという怖さ」「警察に逮捕されるのではないか。法律、秩序が自分にひたひたと近づいてくる怖さ」という「3大怖いもの」を盛り込んだという。しかし松岡にとって本当に怖い体験は、最後の面接で先方に席を立たれたことではないだろうか。
「この面接さえうまくいけば…」は、裏を返せば「この面接がうまくいかなければ破滅だ…」というところまで追い込まれていることになる。もしかしたら、松岡の料理の腕は本当に「芸術的」で一流なのかもしれない。実際に松岡にはそれしか武器はなく、言葉で自分を高く持ち上げるしか戦略がない。
松岡は相手の望むことを汲み、応えることがどうしてもできない。それをへりくだることと考えているのかもしれない。だから、「仕事」と「家庭」どちらもうまくいかない。この極度の不安とストレスのピークに、教室での田代の行動が起こる。「3大怖いもの」が駆動し始める。
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「GHOST~」の草薙に「家庭」はない。草薙は殺風景な自室のベッドで目を覚まし、自分の作り物の手を見つめる(「目覚めのときに見つめる手」)。身を起こし、なぜか流れ落ちている涙をぬぐう(この目も義眼である)。そして、ジャケットをはおり、すぐに「仕事」へと向かう。
「仕事」「家庭」とくれば、「余暇」や「趣味」なども考えるべきだろう。少なくとも草薙にはダイビングという趣味があるようだ。しかし、上述のとおり、非番の日は彼女らにとって「待機中」だ。何かが起これば、すぐに「仕事」へ戻る。
同僚のバトーにしても、余暇を草薙と過ごしているわけではない。総合評価(相互評価?)のレポートで、草薙の様子を部長に報告している(「人形使いの一件以来、変なんだ」)。つまり、彼女が何らかのハッキングを受けるなどしていないか、監視しているのだ。
一方でバトー個人は、草薙に対し特別な感情を抱いている。作戦時、平気でその裸体をさらす草薙に、バトーは上着をかける。物語終盤、身を挺して狙撃から草薙の脳殻をかばう。少女の義体に移った草薙に「いたけりゃ、いつまでいてもいいんだぞ」と声をかける。
しかし、バトーは公私を混同しない。草薙が去った9課でも依然、「仕事」に生きる(そのハードボイルドな姿は、次作「イノセンス」で描かれる)。
ひるがえって、「Chime」の松岡に私情はあったのだろうか。
草薙は物語の結末で、人形使いと「融合」を果たす。「情報の海で生まれた生命体」と「完全な統一」に至り、「人形使いと呼ばれたプログラムも、少佐と呼ばれた女もいな」くなる。しかし、それでも草薙の「私」は消えることはない。
私の電脳がアクセスできる情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し……そして同時に、私をある限界に制約し続ける。
バトーのもとを去るとき、少女の声は本来の草薙の声(CV:田中敦子)に戻る。「それと意識しない声」。それは自分が自分であるために必要な、驚くほど多くのもののひとつであった。草薙はそれを失っていない。
「Chime」のラスト、松岡がチャイムの音に導かれて玄関のドアを開け、外へ出る(このシーンは16ミリフィルムで撮られているという)。いたってふつうの住宅街は、ノイズのような激しい音で満たされる。はたしてこの音は松岡の頭の中で鳴っているのか、実際に鳴り響いているのか。
いずれにしても、松岡はある時点から完全に声を失っている。いや、そもそも映画全編を通して、松岡の「ボイス」が聞こえたことはあったろうか。松岡だけではない。「Chime」の登場人物は、なにひとつ感情のこもった言葉を発していない。叫び、悲鳴、高笑い、嗚咽、怒気。感情の高まりだけが断片的に配置されているのみだ。
人間存在の極北。結局のところ、両作品ともそこに行き着くのだろうか。仕事をすることは、ときにとんでもない場所へ我々を放り出すのかもしれない。