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雑感『ドライブ・マイ・カー』

※本稿では映画「ドライブ・マイ・カー」(以下、本作、映画、映画版)を主に扱い、適宜原作(短編集『女のいない男たち』所収の同名作品および「木野」「シェエラザード」。以下、原作、原作版)を参照するかたちで論を進める。引用出典の「ドライブ・マイ・カー」は映画を、『女のいない男たち』は原作を示している。

題名のとおり、本作では家福の車「サーブ900ターボ16S」が一種の聖域として扱われる。
一例として、劇中で高槻が逮捕されたのち、家福がワーニャ役を演じるか考えるために、みさきの生まれ故郷・上十二滝(かみじゅうにたき)村へ向かうことを決めるシーンを見てみよう。

(家福)どこか落ち着いて考えられる場所、知らないか?
(みさき)(ボンネットをたたく)
(家福)ああ。
(みさき)どこか走らせましょう、

(「ドライブ・マイ・カー」)

上十二滝村へ向かうことは、この直後、家福の提案により決まる。つまり、家福にとって「落ち着いて考えられる場所」とは「みさきが走らせる家福のサーブ」のことである。極論を述べれば、行き先はタイムリミットの2日間で行って帰ってこれればどこでもいい。

もちろん、上十二滝村のみさきの住居跡での二人のやりとりが、過去のくびきから解放し合う契機になっていることは間違いはない。このとき家福は、原作では「木野」の木野の自戒として登場する言葉を翻案し、みさきに対して発する。

(家福)僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。僕は深く傷ついていた。気も狂わんばかりに。でも、だからそれを見ないふりをし続けた。自分自身に耳を傾けなかった。だから僕は音を失ってしまった。永遠に。今わかった。

(「ドライブ・マイ・カー」)

これに対し、原作の「木野」のオリジナルはこうだ。

おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。

(『女のいない男たち』p256-257)

映画版のアバンタイトルで家福が妻と不倫相手のセックスを目撃してしまうのは、「木野」のエピソードからとられている(木野が出張先から1日早く帰宅したことで不倫が露見し、離婚に至る)。木野は「傷つくべきときに十分に傷つかなかった」ことで「中身のない虚ろな心」を抱えることになり、結果、それが悪しきもの(蛇)を引き寄せてしまう。
一方映画では、家福の妻・音の不倫は表沙汰にならない。家福が妻と直面する機会を回避してしまったからだ。

(高槻)家福さんは音さんに直接聞いたことはないんですか?
(家福)僕がいちばん恐れていたのは、音を失うことだった。僕が気づいていることを知ったら、僕たちは同じ形ではいられなかったろう。

(「ドライブ・マイ・カー」)

音がほかの男と寝ていること、あるいは音の中にある「どす黒い渦みたいな場所」が露見して、夫婦が同じ形でいられなくなることを家福は危惧していた。しかし対話を求める妻と向き合うことを避けたことが、くも膜下出血で倒れた彼女の発見を遅らせ、死に至らしめてしまう。あるいはそのような自責の念を生みだしてしまう。

十二滝村での家福の「今わかった」は、映画版でのクライマックスともいえる瞬間である。しかし、実は上述のように、濱口は村上の原作とは「傷つく」ことに対する取り扱い方を微妙にずらしている。

映画で家福が「今わかった」と言うのは、みさきがDV母だけでなく、別人格のサチ(8歳の少女)をも見殺しにしたこと、それに対する罪悪感を吐露したからだ。

(みさき)母が本当に精神の病だったのか、私をつなぎとめておくための演技をしていたのかわかりません。ただ、仮に演じていたとしても、それは心の底からのものでした。

(「ドライブ・マイ・カー」)

この、みさきの「心の底から」という言葉は、高槻が車中で述べた長い長いセリフとリンクする。そして、この長ゼリフは原作にもほぼそのままのかたちで出てくる。

「僕の知る限り、家福さんの奥さんは本当に素敵な女性でした。もちろん僕が知っていることなんて、家福さんが彼女について知っていることの百分の一にも及ばないと思いますが、それでも僕は確信をもってそう思います。そんな素敵な人と二十年も一緒に暮らせたことを、家福さんは何はともあれ感謝しなくちゃいけない。僕は心からそう考えます。でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」

(『女のいない男たち』p54)

映画では、これとほぼ同一のセリフを発した高槻が下車したあと、みさきがこう述べるシーンが加えられている。

(みさき)噓を言っているようには聞こえませんでした。それが真実かどうかはわからないけど、高槻さんは自分にとって本当のことを言っていました。わかるんです。噓ばかりつく人の中で育ったから。それを聞き分けないと生きていけなかった。

(「ドライブ・マイ・カー」)

これに対応する原作の描写は以下だ。家福の高槻に対する印象が地の文で語られる。

高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。

(『女のいない男たち』p54)

しかし原作では、高槻の「曇りのない、心からの」言葉が、家福の何かを決定的に変えたという描写は出てこない。高槻の告白後もしばらく交際が続いたのち、家福は彼との交際を断つ。高槻を「懲らしめてやろう」という思いが不意に消えてしまう。

映画版での高槻の長セリフが発せられた背景と、その影響についてもう少し掘り下げてみよう。
直前のシーンは、稽古後に高槻と家福がバーで語り合う場面だ。高槻はその日、屋外での立ち稽古でエレーナ役のジャニスとソーニャ役のユナとの間に「何かが起こっていた」こと、そしてその何かは自分には起こらず、配役のミスマッチもあって彼を「場違い」な思いにさせていることを明かす。
高槻と家福のやりとりを引用する。

(高槻)あのとき、何が起きていたんでしょう。ジャニスとユナの間で。
(家福)それは二人にしかわからない。ひとつ言えるのは、このテキストにはそういうことを起こす力があるっていうことだ。
(高槻)家福さんはどうして自分でワーニャを演じないんですか。
(家福)チェーホフは恐ろしい。彼のテキストを口にすると、自分自身が引きずり出される。感じないか? そのことにもう耐えられなくなってしまった。そうなるともう、僕はこの役に自分を差し出すことができない。
君は自分を上手にコントロールできない。社会人としては失格だ。でも役者としては必ずしもそうじゃない。オーディションの君も、この前だって悪くなかった。君は相手役に自分を差し出すことができる。同じことをテキストにすればいい。自分を差し出してテキストに応える。
(高槻)応える?
(家福)テキストが君に問いかけている。それを聞き取って応えれば、君にもそれは起こる。

(「ドライブ・マイ・カー」)

家福の言うことを要約すると、相手に、そしてテキストに自分を差し出すことができれば「それは起こる」。家福自身は自分を差し出すことにもう耐えられないが、高槻ならできると感じている。なぜなら、高槻は自分を上手にコントロールできないからだ。

こうして見てくると、映画版では「自分を上手にコントロールできない」ことが、何人かの登場人物の基調になっていることがわかる。
暴力と性の衝動を抑えられず、自らを「からっぽ」と語る高槻。彼をはじめ数人の男と不倫を続け、セックスを通して物語をつづり続けた音(≒シェエラザード)。みさきに虐待を続けていた主人格である母。
家福もみさきも、「自分を上手にコントロールできない」人間に振り回された被害者であると同時に、深くその相手を求めてもいた。そして、家福にとっては音の寝物語が、みさきにとってはサチとの交流が、彼女らの心の底からの言葉を享受するためのよすがとなっていた。
一方、高槻は暴力の発露と引き換えに、車中で家福(とみさき)へ心の底からの言葉を届けることを可能にし(「隠された扉が開いた」)、ワーニャ役を演じるうえでの「何か」を手に入れることができた(「高槻、よかったぞ」)。

このように、映画では原作でいうところの「曇りのない、心からの」言葉を発したり、受け止めたりするようすが描かれている。ただし、そういった言葉をやりとりすることが正解であるかはまた別問題だ。
たとえば、原作の「シェエラザード」を下敷きにした音の寝物語は、家福に対してと高槻に対してとで、バージョン違いが生じている。そして、高槻バージョン(少女は空き巣を惨殺する)は、高槻をのちに暴力の行使へと駆り立てるトリガーとなる。なぜなら高槻は、音の脚本に対して特異な感受性を持っていたし、自分を差し出せる可能性を感じていたからだ。もしかしたら、音には相手が求めるものに対応した物語のバージョンを展開できる才能があったのかもしれない。逆にいえば、物語の別バージョンを生み出すために、音は特別な感受性を持つ男たちと寝ていたのかもしれない。

(家福)セックスと彼女の物語は強くつながっていた。一見関係がないような話でもオーガズムのはしっこから話の糸をつかんでつむいでいく。それが音の書き方だった。

(「ドライブ・マイ・カー」)

原作の「シェエラザード」では、シェエラザードの寝物語は、羽原以外の者とは共有されない。それどころか、羽原自身が何らかの事情で潜伏もしくは軟禁下にあることが示唆される。羽原自身、シェエラザードが次に現れる保証もなく、「語られるはずのいくつかの未知の物語」が語られないままとなることを恐れる。つまり、シェエラザードの語った物語が、他の誰かに伝わることはない。ここが映画版の音とは異なるところだ。音の物語は同じエピソードの別バージョンを共有することで、家福と高槻、そしてみさきに受け渡される。

音の物語は最終的に脚本となり、マスに拡散されていた。しかし、物語としての純度は明らかに落ちていたはずだ。なぜなら、音自身が家福らインターフェースを介することなしに自身の物語にアクセスできないからだ。劣化なしの物語の共有には、特別な時、特別な場所が必要となる。
原作では高槻の「曇りのない、心からの」言葉は、「木野」と思われる青山のバーで吐露された。しかし映画版ではバーの場面ではなく、その後、みさきの運転する車の中で発せられる。「やつめうなぎの少女(高槻バージョン)」が3人の中で共有されたあとにだ。
このように、みさきが運転する家福の車はきわめて特別な場として描かれる。それは原作でも同じだ。

彼女の無表情で素っ気ないところが、家福にはありがたかった。彼が隣でどんな大きな声で台詞を口にしようと、彼女はまるで何も耳に入っていないように振る舞った。あるいは実際に何も耳に入っていなかったのかもしれない。彼女はいつも運転に神経を集中していた。あるいは運転によってもたらされる特殊な禅の境地にひたっていた。

(『女のいない男たち』p28)

彼女のシフトチェンジや、アクセル、ブレーキの滑らかさといった技術的な面とあわせて、その存在自体が消えることが、家福に落ち着きと集中を与える。

(ユンス)彼女の運転はどうですか。
(家福)すばらしいと思います。加速も減速もとてもなめらかで、ほとんど重力を感じません。車に乗っているのを忘れることもある。いろんな人の運転する車に乗ったけど、こんなに心地いいのは初めてです。

(「ドライブ・マイ・カー」)

(家福)車に乗っていることを忘れて、君がいることまで忘れるんだ。

(「ドライブ・マイ・カー」)

車に乗っていることを忘れ、みさきの存在すら忘れるという没我の境地。
同乗した高槻はみさきの存在を気にするが、家福は「彼女は気にしなくていい」と諭す。そして、家福に促されるかたちで、高槻は「やつめうなぎの少女」の続き、もしくは別の結末を語り、次いで例の長い長いセリフを語り、最後は沈黙におちいる。

高槻が車に乗る直前、盗撮を働いた若い男を殴打していたことを、観客は画面から予感している。果たして後日、高槻がワーニャ役として「覚醒」した直後に、被害者が亡くなったことが知らされる。「からっぽ」である高槻の暴力性が解放されるのと、テキストに自分を差し出すことができるようになったのはほぼ同時だ。「自分自身を深く見つめる」ことが、高槻を決定的なカタストロフへと導く。

「自分にとって本当のことを言」うことができる空間。それはやはり聖域なのだろう。たとえその言葉を発した者を破滅へと踏み出させてしまったとしても。そして、発せられた「本当のこと」は、それを受け止める者たちにも内省を求める。
原作と映画のもっとも大きな違いがここにある。車中を没我の空間とするか、その没我に他人も巻き込んで本当のことを言える場とするか。

もちろん、原作の車中でも家福からみさきへ、高槻の述べた「曇りのない、心からの」言葉が伝えられている。しかしそれは、みさきが家福に話しかけ、忘我が破られたからだ。

「ひとつ質問していいですか?」とみさきが言った。
考え事をしながらぼんやりまわりの風景を眺めていた家福は、驚いて彼女の顔を見た。二ヶ月ほど一緒に長く車に乗っていて、みさきが自分の方から口をきくことはきわめて希(まれ)だったからだ。

(『女のいない男たち』p34-35)

原作のみさきは、家福が俳優になった理由を聞き、友人がいるかを聞く。その話の流れで高槻(十年前の「友だちらしきもの」)のことが話題に上り、妻の不倫の話へと至る。そして会話を終えると、みさきは再び沈黙し運転に集中する。家福は「少し眠るよ」と言って、再び没我の空間に身をゆだねる。
この間、家福とみさきは自身の「曇りのない、心からの」言葉を伝え合ったのだろうか? おそらくある程度は伝え合ったのだろう。しかし、その場にはいない高槻が発した「曇りのない、心からの」言葉が挿入されることで、いわば逆説的に二人の言葉の聖性が一段後退する。みさきが口を開いたことに端を発し、高槻の長い長いセリフでピークを迎えた「何かが起きた瞬間」が徐々にフェードして、いつもの没我の空間に戻る。



映画版でソーニャを演じるユナは、あ者(音声による発話ができない人)である。彼女にとって、自分の言葉(韓国手話)が伝わらないのは普通のことだ。

(ユナ ※夫ユンスの通訳を介して)でも、見ることも聞くこともできます。時には言葉よりもずっとたくさんのことを理解できます。この稽古で大事なことはそっちじゃないですか? だから今、毎日とても楽しいです。チェーホフのテキストが私の中に入ってきて、動かなかった体を動かしてくれます。

(「ドライブ・マイ・カー」)

ユナはもともとダンサーだったが、流産を経験し踊りから遠ざかっていた(「体が踊り出さなかった」)。これは家福の妻・音が4歳の娘の死後、女優を辞め、数年間の虚脱状態におちいっていたことに呼応する。音が脚本家としてのキャリアをスタートさせるのは、家福との「セックスから生まれた」物語がきっかけだ。つまり、ユナも音もテキストの力が「動かなかった体」を駆動させたと言える。

テキストに自分を差し出すことは、動かない体やからっぽの存在をドライブさせる。そこまではいい。問題はその先だ。音は物語の別バージョンを求め、性欲をほかの男性にも向けていった。高槻はテキストに自分を差し出すために、暴力の発露が必要不可欠であった。そのようなリスクをかかえて、人は自分を差し出すことができるのだろうか。

映画版の家福は十二滝村で「生きていかなくちゃ」という、存外にシンプルな結論を導き出す。これは映画ラスト近くの「ワーニャおじさん」の結末部分に呼応している。

ヴォイニーツキー(引用者注:ワーニャ) (ソーニャに向かって、彼女の髪を撫でながら)なあ、ソーニャ、おれは苦しい! どんなに苦しいか、お前にわかるだろうか!
ソーニャ 仕方がないわ。生きていくほかないもの!

(『ワーニャおじさん』チェーホフ作、小野理子訳  岩波文庫 p120)

映画版の家福は、最終的にチェーホフのテキストに身を差し出す決心がついたのだろう。しかし、ここで注目したいのは、この決心がなされたのが車の外であるということだ。その証拠に、家福とみさきが抱き合うシーンののち、無人の車の姿が挿入される。そして帰路の描写もない。端的に、少なくとも家福は、車という聖域から退場したのだ。そしてサーブ900ターボ16Sはみさきに引き継がれる。

原作の家福が聖域で眠りに落ちていくのとは対照的に、映画の家福は一見、車を降りて現実へ戻ってきたように、そして喪失から立ち直ったように見える。
しかし、彼が実際に戻ってきた先は「舞台」だ。舞台ではテキストのやりとりが行われる。テキストが問いかけるものに耳を傾け、自分を差し出さなければいけない(舞台裏で再び苦しむ家福の姿が描かれる)。
対して原作では、家福の妻やみさきの父母を狂わせたのは、すべて「病」のせいだとされる。

「そういうのって、病のようなものなんです、家福さん。(中略)頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」
「そして僕らはみんな演技をする」と家福は言った。
「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」

(『女のいない男たち』p62)

原作の「こちらでやりくりして」や「みんな演技をする」の部分は、「木野」の「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ」につながる。「病」という、いかんともしがたいものとつきあっていくために演技をする(「本当をやり過ごしてしまった」)。しかし映画版のみさきの母/サチは、「病」により「心の底から」の演技をしていた可能性を示している。「心の底から」の言葉は、みさきによれば、高槻の車中での言葉につながる。映画版の高槻の「長い長いセリフ」はそのまま原作の彼のセリフに置換され、「曇りのない、心からのもの」として原作の家福の心に響く。しかし原作の高槻の告白は演技ではなかった。なぜなら彼は、「それほどの演技ができる男ではない」からだ。

こうして見てくると「本当のこと」と「演技」が、映画と原作を超えて、登場人物間でキャッチボールされていることがわかる。そして、その輪の中心にいるのは、家福でもみさきでもなく、高槻だ。高槻の設定変更(演技ができる男ではない→自分を差し出すことができる)が二つの物語を絡めて、ドライブさせている。聖域である「みさきが走らせる家福のサーブ」の窓ガラスを高槻がたたいたとき、すべてが始まったのである。

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