雑感『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』
あまりにも多くのことが起こりすぎている
第2部の冒頭は、第1部の最後、間宮中尉来訪の当夜からシームレスで始まる。だが状況は明らかに異なっている。クミコが姿をくらませたのだ。
時系列で言うと、クミコの逐電は間宮中尉が訪れた日の朝、第1部の11章「間宮中尉の登場、温かい泥の中からやってきたもの、オーデコロン」で「僕」が彼女を送り出した直後のことである。しかし、我々読者は単行本で70ページ弱の間宮中尉の「長い話」を聞き、巻をまたいで、いきなり失踪の事実をつきつけられる。このギャップには「僕」も自覚的だ。
「あまりにも多くのことが起こりすぎている」という感想は、読者の視点にかなり寄っている。言い換えれば「僕」がよりメタな視点に移行している。その傍証として、以下のような記述もある。
通常、こういったメタ的な描写は興ざめを招きかねないが、上記のように「僕」が読者に寄ってきていると考えてはどうだろうか。実際、第1部をとおして、我々読者は「僕=岡田トオル(岡田亨、オカダトオル)」の何を知れたというのだろう。
猫が消え、クミコが消えた今、「僕」の過去があらかじめ失われていることが浮き彫りになる。つまり、本作の第2部の冒頭は「僕」がメタ的に読者に近接することで、「僕」が自身について何も知らないことに気づくという、新たなフェーズに移行したことを示している。
この先、「僕」は自身の過去を探る探偵となる。そして、我々読者は「僕」が試みる自己の探索を、伴走者として目撃することになる。
「僕」の「遠過去」―—世界を埋め尽くすもの
宮脇家の井戸の底へ降りることを心に固め、「僕」は路地を行く。その脳裏に去来するのが、少年時代の家出の思い出である。「ちょうどこんなよく晴れた夏の朝に」、「おそらく両親に対して何か腹に据えかねたことでも」あって、バスを乗り継ぎ〈知らない遠くの(もっと遠くの)町〉まで行ったものの、不安と恐怖を感じて家に引き返すというエピソードだ。
ここで注目すべきは、「僕」の両親の情報がほとんど開示されていないことだ。また、上記エピソードに先行する情報として、両親との関係性のよしあしや金銭的な面のみが明かされていることも、いささかの違和感につながる。
たとえば、母親はすでに鬼籍に入っているが、ささやかな遺産を「僕」に遺していた。通常、亡くなった人が遺言等を作成していなかった場合、法定相続人が財産を受け継ぐ。「僕」の母親の法定相続人は、配偶者である夫(「僕」の父親)と子である「僕」(一人っ子)なので、遺産は二人で折半することになる。だが、「僕」と父親の関係はあまり良好ではなく、経済的援助を受けている様子もない。
あれだけそりの合わなかった義父とも面会する努力をしていた「僕」が、実父とはまったくの没交渉で、クミコを引き合わせようともしない。
あくまで推測でしかないが、「僕」の両親は不仲で、「僕」は母親寄りの立場だったのではないか。だから、母親はわざわざ「僕」のために遺言書を残して遺産をできるかぎり夫には残さなかったのではないか*1。
一方、少年時代の「僕」と父親との輝かしい記憶もまた語られる。井戸の中で確認した「七時二十八分」という時間がナイターの行われているスタジアムの情景に結びつき、さらに「ほんの小さな子供のころ」に観たセントルイス・カージナルスと全日本チームの親善試合の記憶につながる。
これとほぼ同じ逸話が短編集『一人称単数』収載の『「ヤクルト・スワローズ詩集」』でも扱われる。
同作では父親が阪神タイガースのファナティックなファンであり、それが自身が阪神間育ちでありながらタイガースの応援にのめりこめなかった一因ではないか、と村上(らしき登場人物)は考える。本作でも、詳述されないものの、野球応援における父親との温度差や方向性の違いがあったと考えて差し支えないだろう。
また、『「ヤクルト・スワローズ詩集」』では、上京した村上が自らの意思で神宮球場を新たなホームグラウンドとし、ヤクルトスワローズを応援するようになった経緯が語られる。つまり、「僕」がクミコと立ち上げようとした新しい生活のアナロジーとして、新たなホームチームの設定をとらえてみてもよい。「僕」にとって父親は、タイガースとともに決別した過去に連なるものなのだ。
さて、井戸に入って「僕」が初めて思い出すのはクミコとのなれそめであったが、その「細部にいたるまで不思議なほど鮮やか」に思い起こされる記憶の奔流の中で、少年時代の思い出も顔を出す。初デートで水族館に赴き、クラゲの特別展示を見る場面だ。
さらに、井戸の底で「壁抜け」を体験した直後、「半月のかたちに区切られた」明け方の空に「うっすらと光る星」を眺める場面では、友人と山登りしてキャンプをした経験がよみがえる。
上記の二つの場面では、少年時代の「僕」が異物に取り囲まれる体験が描かれている。ひとつはクラゲであるが、クラゲについてはクミコがその存在に言及する場面がある。
クラゲも満天の星も、「本当の世界」を埋め尽くしている者たちだ。しかし、我々はその存在を「忘れてしまっている」。「僕」が井戸の中でアクセスできるのは、ふだんは忘れてしまっている、限定された記憶である。その記憶は異界への恐怖や不安とともに、世界を埋め尽くす不可視の領域へと直結している。
「僕」の「近過去」―—後天的な世界としての家庭
浮気を隠し続けていたクミコは、第1部を通して終始、不機嫌な女性として描かれてきた。機嫌のいい場面が例外的に描かれているくらいである。
機嫌のいいクミコが仕事の話をするのを聞きながら、「僕」は「家庭」について考えていた。
先述のとおり、「僕」が井戸の底に降りて最初に思い出すのが、クミコとのなりそめである。その語り口は、間宮中尉や加納クレタが開示してくれたエピソードと同様、「そのまま手にすくい取れそうなくらいありありとしてい」る。「奇妙な含みを持った闇の中で」、「僕」がクミコにひかれていった経緯が明らかになっていく。
この記述の直前では、クミコの先天的な家庭事情が端的に描かれている。
第1部では、クミコの両親、兄(綿谷ノボル)の生い立ちや家庭環境が明らかにされており、さらに、亡くなった姉とクミコ自身の幼少期についても詳述されていた。
幼いクミコは母と折り合いの悪い父方の祖母の元へ、いわば人質として預けられるが、やがて綿谷家に呼び戻される。大人の都合による人身のトレードは、6歳のクミコをひどく傷つける。
クミコは本来の家族という「新しい環境」で、「無口で、気むずかしい少女」になっていく。そんな彼女に寄り添ったのが小学六年生の姉だ。
しかし、クミコの姉は「食中毒の事故」で亡くなってしまう。
クミコと年の離れた姉の関係は、『ノルウェイの森』の直子とその姉の関係をほうふつとさせる。
クミコも直子も、姉とは異なった路線を選ぶ。また、二人とも家庭内の要であった姉を亡くしたことで、後景から前景へと押し出される経験をしている。クミコはいわば、生き残った直子と言ってもよいかもしれない。
僕がクミコに対し「懐かしい誰かにふとめぐり合ったような気持ち」を抱いたのは、家族に対する距離の置き方に通じ合うものを感じたからかもしれない。だからこそ、お互いが結婚を通して「自分の意志で選んだ後天的な世界」を築くという価値観を共有できたのだ。
しかし、上述のように「僕」の先天的な家庭内での、つまり両親との距離感については井戸に潜る前に示される一方、井戸の中で思い起こされる少年時代の記憶は断片的なかたちにとどまる。つまり「僕」とクミコでは、「遠過去」の与えられ方に乖離がある。
また、クミコのそれも含め、「他者の過去性」が比較的リニアに展開されるのに対し、「僕」の過去性はその遠近にかかわらず、井戸という装置を通してノンリニアにアクセスされる。本作以降、本格的に稼働する「壁抜け」は、異界や深層心理への移動装置と考えられるが、井戸の持つ過去性へのアクセスという機能(ランダム・アクセス・メモリーズ)に裏打ちされていることを忘れないでおこう。
笠原メイの視点、叔父の視点
井戸にたらした縄ばしごを引き上げた笠原メイは、「僕」の生殺与奪の権を握っていたと言っても過言ではない。
彼女の関心ごと(「存在の中心」)は終始一貫して「死」である。しかし、「僕」は笠原メイの中心命題である「死」に関心が持てない(あるいは鈍感である)。笠原メイはそれにいらだち、必死に「僕」に死について考えさせようとする。
考えてみれば、間宮中尉と加納クレタも死に著しく接近しつつも、彼らの関心は「恩寵」や「痛み」にあった。死は彼らの抱える問題の大きな転機となりうるが、中心命題にはならない。それに対し、笠原メイは自ら井戸の底に降り、「私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうと」する体験をする。
笠原メイが感じてほしかった恐怖を、「僕」は感じられなかった。これが実は彼女を救うことにもつながる。彼女自身が乗り越えられなかったことを、「僕」が代わりに成し遂げたからだ。あるいは彼女の中心命題を相対化したとも言えるかもしれない。
この場面の前に、「僕」は笠原メイに肉体的あるいは精神的に汚されたことがあるかを尋ね、彼女は自身が処女であり、精神的にも汚されていないと答えている。だから、上記引用の笠原メイの行為は、聖別とも解釈できるかもしれない。クミコを求めて綿谷ノボルと対峙する「僕」は、同時に「いろんなものを引き受けて」代理戦争を行う資格も与えられたのである。
おそらく「他のいろんな人」の中には、間宮中尉や加納クレタも含まれる。間宮中尉の手紙の結び、「岡田様がこの先幸せな人生をお送りになることを、陰ながら念じております」は単なる社交辞令ではない。「愛情や家庭というものとは無縁の場所で生きて」きた間宮中尉は、真剣に「僕」の幸せを祈っている。
さて、「クミコ≒直子」の図式においては、クミコと築き上げた家庭が崩壊し、彼女が失われることはもはやデフォルトである。それは「僕」にとって、クミコと築き上げてきた「近過去」の意味喪失と同義である。だから「僕」の戦いは、笠原メイに言わせれば「ぜんぜん勝ち目がなさそうに見える」ということになる。
上記引用は、まさに「僕」の「近過去」の中核であるが、危うさを十分にはらんでいる。そのことに、笠原メイは非当事者として敏感だ。
笠原メイの言う「捨てちゃおうとした世界」や「捨てちゃおうと思ったあなた自身」は、「僕」が井戸の底で断片的ながら再獲得していった過去そのものである。ここでメタな視点に立てば、物語をドライブさせるために村上が「僕」から切り離した「遠過去」に、「僕」は「仕返し」されているのである。
この「遠過去」の不在と反撃は、既存の村上作品の基調を成していると言っていいかもしれない。しかし、本作が新たな展開を見せるのは、「僕」がつくりあげようとした「新しい世界」「本来の自分に相応しい自分自身」が、クミコとの共作であることからだ。
そんな「僕」とクミコの「試行錯誤」を肯定的に捉えていた人物がいる。「僕」の叔父だ。
叔父は「どちらかというと現実的な人間」であり、「僕」のいる世界と叔父のいる世界の間には「目には見えない厚く高い壁のようなものがあ」る。だから、叔父は「僕」にプラクティカルな助言をする。「いろんなことがものすごく複雑にしっかりと絡み合っていて、ひとつひとつほどいて独立させることができない」ときは、「誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいなところから始めるんだ。そしてその馬鹿みたいなところにたっぷりと時間をかけるんだ」と。
叔父は「僕」の問いかけに「そのうちに意味はわかるよ」とお茶を濁すが、彼の復讐の対象は漠然と示唆されてもいる。
つまり、「世の中の大抵の人間」を白痴化させる能力を持つ者に、叔父は「復讐」している。そして、この「自分の目でものを見ることができない人間」こそが、綿谷ノボルが持てる力を行使できる対象である。
では、綿谷ノボルは衆愚と化した民衆をどこに導こうとしているのか。彼は政治に対して「はっきりしたヴィジョンを持っているし、それを人々に訴えかけるだけの力をも持っている」と自認している。
綿谷ノボルが確立を目指す「国家の明確なアイデンティティー」は、具体性に乏しく、内容空疎にも響く。しかし、メタ視点に立てば、21世紀の日本は、彼が述べた「潮の流れのままに揺られ、運ばれる巨大なクラゲのような存在」に成り果てていると言えるかもしれない。
我々が「綿谷ノボル抜き」で世紀をまたいでしまったことで、彼の予言が成就してしまったのか。あるいは国家というものは常に「不明瞭な字句や、出口のないレトリック」と無縁ではいられないのか、それはわからない。ひとつ言えるのは、「自分の目でものを見ること」ができる者が一定数存在するかぎり、「国民的、国家的コンセンサスを打ち立てる」のは困難であるということだ。
結婚生活を中核とする僕とクミコの「近過去」の瓦解は、綿谷ノボルにとって好都合であるだけでなく、クミコの「暗黒の部屋(208号室。「闇の世界」)」を経由して積極的に働きかけることで引き起こされたことが、第2部の結末部分で明らかになる。そして、そのことでクミコが決定的に損なわれてしまった可能性を、加納クレタが示唆する。
だから加納クレタは自分とともに、クレタ島へ脱出することを勧める。加納クレタは名前を失った「かつて加納クレタであった女」だ。そして「僕」は「かつて岡田トオルであった男」となる。そうなることを、ほとんど決心しかける。しかし、「僕」は思いとどまる。なぜなら、それこそが綿谷ノボルの思うつぼであるから。
クレタ島行きは、綿谷ノボルが「僕」に勧めた流れに乗ってしまうことになる。なにより、「どこか別の場所で」自分に「相応しい人生を始め」るのは、クミコと行ったことの繰り返しにすぎない。
再獲得した「近過去」と「遠過去」の維持。それは「僕」ひとりで行っても意味がない。クミコを取り戻すことは必然であり、その先には綿谷ノボルとの対決が待っている。
*1 母親についての詳細が語られないものの、彼女の遺産が失業中の「僕」のセーフティーネットになっていることは間違いがない。綿谷ノボルとの戦いの「軍資金」となり、第3部で語られる新たな「労働」へと橋渡ししてくれるからだ。本作は失業中という特殊なシチュエーション下で物語が進むが、労働すなわち自分の能力を用いて金銭を稼ぐことが、重要なキーとなっている。
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