『白亜』/愛☆まどんな【マンガ感想】
今回はコミック作品『白亜』の感想について記したいと思います。あわせて「愛☆まどんな」とゆうアーティストに関してもメモしたいと思います。
『白亜』(愛☆まどんな・山田 玲司 著:コミック作品(2019)STOKE刊) 絶版
※本書は愛☆まどんなの個展『白亜展』開催のためのクラウドファンディングのリターンの一つとして発表されたものです。現在絶版だそうです。
(わたしも当クラファンに参加して、本書を入手しました)
(参考)「愛☆まどんな×山田玲司『⽩亜』」 (引用元)Oil 美術手帖公式サイトより
あらすじ:
そばかす顔の多感な女子高生 白田マイは同学年の少女たちが大好き。特に眼鏡っ娘のカズノに片思いしている。
少女たちを愛するあまり、マイは自分の心の揺れ幅に自身でさえ制御できずにいる。ときには心のまま爆発し、自慰にふけ、辛辣な言葉を発する。
そんな彼女の前には様々な少女たち、そして少女の姿を模した関節人形やフィギュア・ドール、そして人魚たちが現れる。「白亜」とゆう謎めいた言葉に誘われて、マイは妄想の海(水槽)へと足を踏み入れる。
(1)コミックとしての『白亜』
ストーリーは少し残念な印象がありました(あくまでわたし個人の感想です)。
少女たちの言動や会話、そして仕草にリアル感が乏しく、男性目線による、かなり固定的な観点で描かれているように感じました。
ただ、読み返すと面白い部分もあり、また、そうはいってもキャラクターたちの可愛さに惹かれる部分もあります。
話によると主人公の『マイ』とは米≪こめ≫のことで、その他の少女の名は魚の卵の名称が使われているようです
主人公のマイを含めた登場人物たちは、「愛☆まどんな」による一連のアート作品『彼女の顔が思い出せない』で描かれる少女たちが登場するとゆう仕組みが面白いです。
(アート(絵画)から物語性への展開)。
こうした、ストーリーの外側にアートとしての少女がメタ的に存在することが、総じてこの企画の面白さになっているような気がします。
ただ、わたしは「愛☆まどんな」による本来のアート作品から感じる「少女性」や「少女愛」とは、もっと純粋なもの、イコンとしての「少女」の表現のように感じ取っていたので、
本書のストーリーにおける少女の俗的な表現(あるいはブルセラ的なもの)に違和感があったのかもしれません。
(もしかすると、もう一転して、「聖なるもの」は「卑俗的なもの」と同素であるとゆうことかもですが、それは考えすぎかもしれぬ、わからぬ)
※原作(ストーリー)は宮崎夏次系や、または女性作家だと趣が変わったかもしれない。
(2)アート作品としての『白亜』
本書には、各話の扉絵に使われるアート作品『彼女の顔が思い出せない』を含めた「愛☆まどんな」による絵画が漫画の合間に差し込まれており、この1冊が彼女の画集にもなっています。
わたしはどちらかとゆうと「愛☆まどんな」画集として手に取った感がありました。
本の造りもかなり凝った趣向がここそこに凝らされており、書籍自体が一つのアート作品ともいえます(本の装丁は吉岡秀典とゆう方だそうです)。
差し込まれたアート作品(1枚絵)の頁の紙は特殊な作りで、見た目や手触りがキャンバスを模したインボス(凹凸)加工されています(まるでキャンバスから剥がしてそのまま載せているような)。
また、特殊な波長のブラックライトを当てると、真っ白な頁に絵が現れる部分が見開き2ページあります。
(3)「愛☆まどんな」について
「愛☆まどんな」は、会田誠の流れをくむ現代アートの画家さん(アーティスト)で、本業は漫画家ではありません(そこも面白いと思った点です)。
模写して気づいたのですが、一見シンプルなデザイン画に見えるのですが、かなり複雑で独特な色彩感覚があり、真似することができません。
(わたしは、なんとはなしに、アンディー・ウォフォールの色彩にも似ている感じがしました)
(参考動画)
(引用元)『ARTIST NOW #005 Ai Madonna/愛☆まどんな』(Youtube: 108 ART PROJECT チャンネル 公式)