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恥をかかない人生で失ってしまうもの

青春を謳歌する修学旅行生が40人ほどいた参宮橋の改札。

「キミの人生を、、、応援するからっっ」



75歳であったわたしの恩師がこう叫んでくれた。
人前で、しかもハグをしながら。

日本では、ハグは一般的ではない。
駅の改札で大きな声でエールを送るのも普通ではない。

しかし、75歳の恩師はその恥じらいを捨てて悩める青年にぶつかってきてくれた。
仕事や育児、将来の展望で大きな危機と不安を抱え、文字通り切羽詰まっていたわたしに希望の歌(エール)をうたってくれた。

恩師は、「自分に何かできることはないか」と何十分も黙りこみ、目をつぶり考えてくれていた。このような人が自分の人生に数人でも居てくれれば、窮地にいても少し深呼吸できるかもしれない。



思い返すとわたしは、


恥をかける人に憧れてきた。


道端で酔っ払い倒れた人がいた。その横を何人も通り過ぎる中、周りをキョロキョロ見渡しながら数分後に意を決して、「大丈夫ですか?」と声をかけた若いサラリーマン。


上役が何人も出席する会議で同僚のミスを自分のミスのように「申し訳ありませんでした」と頭を下げたあの人。(ミスをした同僚は精神的に参っていた。)


こどもの「お父さん好きだよ!」という純粋なストレートボールに照れながらも街中で「愛しているよ」としっかりと伝え返したお父さん。


日常に時たま現れる、こんな人たちに憧れてきた。




「誰かのために恥をかける人」になるのは、とても難しい。
そもそも、恥はなるべくかきたくないからだ。


しかし、恥をさけることで失っているものはないだろうか。

わたしはそれを、
信頼、友情、人の暖かさなのではと感じている。

あの恩師が教えてくれた気がする。
誰かのために恥をかくことは、「人生って悪くないかもよ」とエールを送ることだ。言葉ではなく、行動で。

誰かのために恥をかくことで、人の暖かさ、信頼、友情が芽生え、また相互にそれを受け取ることができるのだと思う。
例え相手が見知らぬ人であっても。


少なくともあの日、まだ残暑が名残惜しそうにしていた秋口。
あの駅でわたしは「人生って悪くないかもな」というエールを聴くことができた。耳で聴いたわけではないが。

今日もわたしは大層なことはできない。
いつもの凡人のわたしだ。
今日、わたしは少しの恥を誰かのためにかけるだろうか。

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