子供の”面白い”が理解できなくて困っていた僕が素直にわからないって伝えてみたら起きたこと
小学一年生の面白いって??
長男が、タブレットのscratchにはまって、感情の赴くままに謎のプロジェクトを作っては、みてみて!と見せてくる。
その他にも、『さんすぼっくす』というアプリの「いろいた」という三角のブロックを組み合わせて図形や絵を作るアプリで問題を作っては、解かせたり
https://waochi.wao.ne.jp/news/21340.html
カーペットをドアップで撮った動画をGooglePhotoアプリで編集して、謎の光線のような動画を作って見せてきたり、
とにかく、「原型が何だかわからない」という事を面白がって、こちらに感想を求めてくるのである。
あくまで息子の特性で、小学一年生ってみんながこうだよねとは思ってないけど。
scratchでのプログラミングも、動画編集も、図形づくりも、どれもとてもいい活動だと思うし、自分の”面白い”という気持ちに突き動かされて挑戦することはすごくいいことだ。
それって、子供同士なら伝わるの?
しかし、いくら何でも何が何だかわからない。
どう面白がってあげたらいいのかもわからないし、無秩序なものを作っているだけで、技術的に何かを見つけて喜んでいるわけでもなさそうだ。
これは、自分が大人になってしまっているから面白さがわからないんだろうか。
子供同士で見れば、「すげー!」「かっこいー!」「おもしろーい
!」ってなるんだろうか。
大人の論理で、子供の衝動を否定したくないし、本人が面白いと思っているものを「意味不明でつまらない」というネガティブなフィードバックもしたくない。
でも、できれば、意味があるものを作ろうとして、その過程で、どんな技術が必要になるのかを感じてほしいし、その技術を自分で見つけてほしい。
ぐちゃぐちゃっと作って、できたぐちゃぐちゃを、ぐちゃぐちゃで面白いでしょ!と言われても、ちょっと、一人の人間としても、親としてもどう反応すべきか悩んでしまう。
「俺にわからない」は事実だから伝えていいんじゃないか?
いろいろ考えて気付いたのだ。
彼が、彼の作ったものを面白いと思っているのは事実。
ということは、その作品には、ある種の「面白さ」がある。
俺が、その作品を見ても「面白い」と思えないのも事実。
ということは、その作品の「面白さ」は、僕には伝わらない。
この2つのメッセージを素直に、ていねいに伝えてあげればいいじゃないか。
「〇〇△△なモノを作ったんだね。面白いモノつくったんだね。」
「とっても素敵だと思うんだけど、お父さんには、こういう、うわーって動いているから面白いっていうのがよくわからないんだよ。大人になってしまったからかなあ。」
「もうちょっと、「なに」が「どう」なっているっていう、お話が分かるものの方が面白いって思うんだ。」
「この映像は、なんだか花火みたいできれいだから、「ひゅ~」ってあがるところと「ばーん」って弾ける音とかをつけてくれたら、「花火だ!」って面白がれると思う。」
うーん。話が長いな。
息子の反応
なんと、このフィードバックを受けて、自分でscratchのプロジェクトにオブジェクトを追加して、花火が上がる動き、「ばーん」という声を録音して、花火が弾ける音を表現して、その後にもともと作っていた、ガチャガチャしたものが出てくる。という、一連の「花火」に自分の作品を落とし込むというか、お父さんの分かる形にチューニングしてくれたのだ。
全て、自分で。
僕が、今まで無秩序にぐちゃぐちゃ何もわからずにいじっているだけだと思っていた遊びの中で、scratchの使い方をしっかりと学習していたのだ。
むしろ、僕のフィードバックを待っていたのかもしれない。
心にもない「面白い」ではなくて、「それでは、わからない」という言葉を彼は必要としていたのかも知れない。
まとめ
「本人の面白いっていう気持ちや、作品の面白さを否定しない」
「「面白い」と思うものは人によって違う。」
アートもコミュニケーションだと思うので、独りよがりな「面白い」を押し付けるようなやり方を覚えさせてはいけなかったなと思う。
でも、自分の思いのままにぐちゃぐちゃ遊ぶことの楽しさがなければ、楽しさ、面白さを共有したいっていう感情もわいてこないのかな。
一人っ子の場合、親が家庭で子供を特別扱いし続けることが、出来てしまうからこそ、どこかで線引きは必要なんだろうな。
とはいえ、出来るだけ、子供の「面白い」は素直に受け止めてあげたいなあ。