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「新月が来る」夏夜咄六夜〜十夜


文披31題 その六夜「呼吸」


突然の師匠の不意打ちの一撃により雰囲気を一瞬にして変えられてしまう。しかも私を狼狽へさせる。すかさず私も黙っている訳にはいかずに言い返す。
「師匠!冗談はやめて下さい」
と言いつつ、ハッと気づけばやられている。師匠の人詠みの罠に呆気なく嵌ったと思った。人の動揺を誘って、その対応を見逃さずに人詠みするのだ。いつだって何気に仕掛けてくる。油断も隙もあったものでは無い。狼狽えて乱れた呼吸を整えながらいつもの事だからと苦笑する。そのようにして人読みの極意を実践体験で教えてくれる。何故か憎めないのだ。
「雪乃と、同じようなお名前ですのね、どのようなお方なのか気になりますわぁ」
「ゆっ、雪乃さんその話し、嘘ですから。彦乃というのですはね、あの竹下夢二の恋人の名ですよ。師匠の引っ掛けなのですから」
「あははは、夢さん鋭くなって来ましたね。茶人としては筋がいいのだが、女性に甘いのが良くも悪くもあるがね。それとね夢さんは、茶道を生業にする訳じゃないから」
「あら、先生。引っ掛けでしたのね、意地悪ですこと。ふふふ」
どうやら師匠の口ぶりからすると私の言葉の返しがまだまだ修行が足りない思いであって不満だったようだ。ようするに、彦乃は素敵な女性で私の二番目の恋人なんですよ。日本橋の「港屋絵草紙店」さんで知り合いましてね。仲良くさせて頂いております。大正三年の頃ですがね。と、こんな返しが正解だったようだ。残念ながら私はそこまでの域には悔しくもまだまだ修行が足りないようである。
「師匠、お客様です」
すると半東さんがやって来て師匠に告げる。バツが悪いと何故か用事が入る。
「夢さん、雪乃さんにお軸の話しでもして上げてくださいな」
ニャリと笑いながら言って師匠は茶室を退室して、客人への元へと行ってしまった。

文披31題 その七夜「ラブレター」

そして、茶室は二人の世界になってしまったのだ。半東さんと師匠がニヤニヤしながら下がって行くのが気になっていた。
気を取り直してお軸の話しをと思い姿勢を正して対峙する。雰囲気としては季節感とは正反対であるが、情景の趣向をどこまで受け取っていただけるか楽しみである。
「あら、雪だわ。心のこもった設え(しつらえ)ですね。素敵だわ」
と雪乃さんが掛け軸を見ながら話し出した。
「気配りが凄いです。さすがに師匠ですわねぇ」
一本取られてしまった。今更私が選びましたと言うほど無粋で野暮でもない手柄は師匠に譲るしかない。客人が喜んでもらえてその場が和んでこその一座建立なのだから。
するとバックの横に置いた帛紗(ふくさ)から包んだ小さな箱を差し出してきた。
「この前のお礼ですの」
「えっ、何ですか、よろしいのですか。何もしてないのに」
「今日のお礼も兼ねてますのよ、遠慮なく納めて下さいね。それはラブレターのつもりですわ。ふふっ‥」
悪戯っぽく言いながら出された品物は江戸切子の小さなグラスであった。話す言葉は手慣な大人の女性なのだが、しぐさや顔つきは少女のような笑顔に、江戸切子から溢れるキラキラがあたり可愛いのである。


文披31題 その八夜「雷雨」

さて、そろそろ雪乃さんとの出会いの経緯(いきさつ)から話を始めよう。
雨降る根津神社の桜門の下で雨宿りしている佳人を見かけたのだ。そのきらめく思い出は雨に咲く可憐で静かな佇まい(たたずまい)と内に秘めた燃えるような想いの残影を残して行くのであるが、それは山紫陽花が静かに咲いた恋を思わせる出逢いでした。

師匠が主催する茶会の打合せの帰りでのひとコマで、一人で帰る雨月の雨と気まぐれの晴れ間。気がつけば咲き出す紅花夕化粧の花が儚げな雰囲気を漂わせている。夕方に咲くかと思えばしっかりと朝から晩まで咲き、夜中には萎んでしまう一日花なのだ。

その日の帰りは仕事を抱え駐車場から急ぎ帰る時に季節を変えようとする突然の雷雨であった。桜門で雨宿りしている佳人とチラッと目が合ったのが今でも記憶に鮮明に焼き付いている。そして数日後のこと、根津神社へ師匠の書類をお届けするために伺ってその帰り道のことです。長い神社の通路の脇に夕化粧の花が忘れかけた記憶を思い出させるかのようにひっそりと咲いていた。その趣きが慎ましく思えるのだ。
季節は雨月が過ぎる雨季に差し掛かる頃になっていた。私はにわか雨に追われて桜門に飛び込んで雨を払っていた。すると傍に佇む人が微笑みながらこちらを見つめている。あっ!と思い笑い返せば確かあの日の佳人とすぐに分かった。
「数日前にここで雨宿りしていましたよね」
「ええ、そうよ」
「あの日は視線が合ったのをご存知でしたか」
「はい、きっとわかってくれるかと」
「やっぱり、そうでしたか。あの時は面識がないと思い躊躇しました。ひと言お声掛けしておけばと後悔しました。

にわか雨駆け込む軒に佳人立つ交わす言葉も二言三言


文披31題 その九夜「ぱちぱち」

あの時は雨がぱちぱちと激しくて運転に気を取られてやり過ごしてしまい申し訳ありませんでした。」
「はい、仕方ないですわ。でも私はお待ちしておりましたの。もう待ちくたびれましてよ。雨が止みましたから帰りましたの。ふふっ」

この会話の返しの巧みさに完全に呑まれてしまう自分に戸惑っている。その時、神社の使いの者がビニール傘持って追いかけて来てくれた。見るなり彼女を連れと勘違いして自分の傘も渡して、声を掛ける間もなく素早く戻ってしまった。
「傘が来ました。」
少し間が空いたので気を取り直して笑いながら手渡す。二人は歩き出した。急ぐ用事はなかった。
「少し、話しませんか?」「ええ、よろしくてよ、」
丁度数メートル先に喫茶店を見つけて立ち寄り雨の行方を待つことにした。
ゆっくりと話が進みうちとけてきた頃には雨も間隔を開けての音となり上がるのを知らせていた。しかし未だに彼女の正体がわからないでいた。そろそろ帰る仕草を感じて連絡先を尋ねようか躊躇してたら彼女が切り出した言葉にすべての謎が解けたのである。今まで知っているフリをするのがばれやしないかドキドキしていたがやっと解放されたのだ。



文披31題 その十夜「散った」


「この次お会いする時は私にお茶を点ててくれませんか」 突然彼女が言い出した。
「えっ?‥‥‥」 
少しの間が空いてやっと理解できたのだ。
「あははは‥。私のお点前でよろしいのですか?それなら、いっ、いつでも‥」 
不意を突かれて落ち着きなく返す。
「ええっ、必ずですよ。今度のお稽古の日に先生にお願いしてみるわ。」
「分かりました。それなら次のお稽古の時ですね。」
「はい、よかった。楽しみだわぁ〜。」
思わず、パズルが解けた時のように、笑いが止まらなかった。なんて事ないお互いに師匠の弟子と生徒なのだ。そうか彼女はすでに私を知っていたのだ。すべての疑問の霧が晴れるように一瞬にして風に飛ばされ散った桜を見るような爽快な気分でその時を感じていた。

佳人とのせめて月夜の出会いなら 溢れる言葉贈れしものを

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