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「新月が来る」 夏夜咄一夜〜五夜


文披31題 その一夜「夕涼み」

プロローグ
夜咄の第一夜の日に、この三畳台目の茶室にひとりの麗人がお見えになるらしい。
師匠にそのように言われて茶室の床の間の設営を始める。掛花には、ちらほら咲いた山紫陽花を無造作に投げいれてさりげなく掛ける。さて、肝心のお軸はと思案する。少しでもこの初夏のむし暑い夕方のひと時に涼風の一服を添えたいと思いを込めて、二幅のお軸を用意していた。瀧の絵と文字が添えてある一幅と、ただの雪の文字の一幅である。
思いを巡らし、どのような趣向にするか思案する。幸いにも的はずれと思わせての一幅に目が釘づけになる。季節外れではあるが迷いなく「雪」の文字のお軸を選ぶ。これは選ぶ人の風情と粋の感性が試される場でもある。
これで今宵の夕涼みの設えが整えられたわけです。
夕闇が茶室に淡墨を滲ませてくれば、いよいよ夜咄が幕をあけるのです。今宵の夜咄の客人はどのようなお方なのだろうか。

夜咄31題 その二夜「喫茶店」

心を刻む残酷な四月も、既に遠い彼方なのだが、目眩く季節の歩みは年毎に加速している。もう、風の薫る五月も下旬となり雨の季節が侵蝕してくる頃、半世紀も前の君が暮らしていたマンションへ行く坂の階段を歩いていた。既に建物は無く、いつも君が帰るのを待っていた。途中にある「喫茶店」に久しぶりに寄ってみました。ひとりで飲む珈琲は苦くて、とても現実から逃してはくれず、思い出だけが後追いして来ます。あの時に詠んだ短歌が懐かしく思い出されて、気がつけば涙が出ているのですよ。

喫茶店きみが語ると歌になる ふたりが話すと不協和音になる 繊月

ひとの営みも季節を繰り返しながら逆らいの流れもいつしか、流れる川に身を任せて海へと向かって流れて行くのです。
身体に刻まれた季節が蝕む変り身に、長年の無神経の蓄積が意趣返しのようにお互いを痛みつけているのです。病む身体の、遣り場ない煩わしい思いが、流れ星のように激痛と共に走って行く。それはふらふらとした、行方知らずの薄羽蜉蝣の漂いを映すかのようなのです。

遠いあの時の「残酷な会話や醜い想い」は置きざりにされ忘れ去られて、いつしか上書きされて淡い記憶だけになって漂っているのです。

文披31題 その三夜「飛ぶ」

最近思うに歳を重ねたからか病気になったせいなのか解らないのだが。現役の常在戦場での「鯉口を切って」いた緊張感から解放されて十数年も過ぎれば他人も自分も俯瞰できるようになって来たのだ。

色んな事に感謝できるようになって来たなという、あまりにも遅い実感ではある。仕事も株取引もやめて横道めぐりの道楽であった茶の湯でも、と思って再開した矢先に身体の不調が襲ったのだ。突然頭の中の毛細血管が何本か「飛ぶ」のを感じた。すぐに病院で治療して、ほぼ全快になったものの少しだけ後遺症が残った。その分だけ少し成長する老いた青年になれたのかもしれない。

その茶の湯の所作すら、まともに出来ぬ身体となりそれが功を奏してか茶の湯のより深きを知る事になるとは、なんたる人生の巡り合わせなのだろうか。

ひとつ失うとひとつ得る。この歳になっても世の中は思う様には上手くいかないのではあるが、それでも人生の帳尻が合ってしまう。つまりは定めと思えば諦めもつく。

不意に、かつての根津の師匠なら、なんと言ってくれるだろうかと懐かしく思い返していた。


文披31題 その四夜「アクアリウム」

さて、話を元に戻そう。
もう半世紀近く前になるが、師匠の庵での出来事に私は思いを馳せて居る。
師匠の社中監修で半東さんが受け持つ茶の湯教室での手習いが済み、後片付けの手伝いをしていると師匠がやって来るなり
「夢さん、これを離れの茶室の掛花にしておくれ」
と言って小紫陽花のひと枝を託された。それは小振りの額紫陽花で小さい花の粒があちこちに弾けていて、いつか見た「水族館(アナトリユウム)」の小魚みたいに踊っていた。何故か師匠は私のことを「夢さん」と呼ぶのである。
「掛花ですね?」
「そうだ」
「花器は如何しますか?」
「うむ、用意してあるからそれでお願いする」
「お軸は夢さんが選んでおくれ」
「承知しました」
そして、離れにある茶室へと向かう。どうやらやっと、一夜の話しに戻れたようです。


文披31題 その五夜「琥珀糖」

床の花は、備前の鶴首に蕾の夏椿。備前を選んでくるあたり流石です。備前は地味でもあるが、花を引き立てながらも存在感があって収まりが良いのだ。掛け花入れは「鮎籠」が選んであり師匠のセンスの良さは天下一品です。感心しきりであり、語らず教えるスタイルには感謝です。すると半東さんが茶菓子の「琥珀糖」を用意してくれて来た。掛軸はその一夜で記した趣向を込めた雪一文字である。掛花を差し終えお軸と交互に眺めていると、躙り口から師匠と麗人が入って来た。
ふとその麗人と眼が合うとひそかに笑っている。なんと雨宿りの佳人なのだ。生成りの白を基調とした紫陽花を映した単衣を身に纏い凛とした麗人の雰囲気を醸し出している。少し動揺している自分がわかった。
「夢さん、お薄でお願いするよ」
「えっ、師匠にですか?」
「いやいや正客はこのお嬢さんだ」
「雪乃さんと呼ばれておってな、よろしく頼みますよ」
「そして私は末客じゃ」
呼ばれている⁇
妙な言い方であると思いながらも何かワケアリなのだろうと勝手に納得する。雪乃さんが一服終えて、茶碗を返してきた。雪乃さんに少しお話しを聞こうと茶碗を引き寄せると、同時に師匠が話しを滑り込ませる。何て言う間合いの取り方なんだ。不意を突かれたが、動揺を悟られないようにと余裕で構えている。すると、お構いなく二の矢を放つようにして滑らかに喋り出す。
「雪乃さんゃ、この夢さんの恋人は彦乃とおっしゃるのだ」
最初から砕けた話しにして場を開放し笑いを誘う。流石である。
「ええ〜師匠、そうなのですか?」
「彦乃さんですか、素敵なお名前ね」
「でも残念ですわ、ふふふっ」

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