東中野「切支丹十字路」

東中野は教会が多い土地だ。
大久保が近いことから、韓国系キリスト教会が多く集まっているのだろうと私は勝手に想像したのだが、そんな事情ばかりではではないようだ。

例えば、3丁目の東中野銀座通りにこじんまりとした一軒の教会がある。
東中野教会である。その外観から、歴史の浅そうな印象があるが、実は1910年二葉独立教会として設立した、東中野でも古参の教会である。
且又、この教会はかの有名な「きよしこの夜」発祥の地として名を馳せる。誤解のないように書けば、日本人皆が知る有名な日本語歌詞が、ここ東中野のこの教会から全国に広がった、と言う事である。
この歌詞は由木康という牧師に依って作詞された。
因みに、由木は1985年までご存命であったため、今現在まだ著作権が有効であり、ここではその歌詞の掲載は差し控えたい。

さて、ウィリアム・スミス・クラークをご存じだろうか?
札幌農学校のクラーク博士と言えば、如何だろう? 最早説明不要のセレブリティであろう。
当時、クラークはマサチューセッツ農科大学学長に就任、また同時期、同地のアマースト大学で教鞭を執っていたという。そのアマースト大学の学生の中(うち)に一人の日本人がいた。同志社大学創始者、「新島襄」その人である。
この新島の紹介により、日本政府から要請を受けたクラークは、札幌農学校に赴任することになる。
しかしそれは、マサチューセッツ農科大学の、1年の休暇を利用する、という条件付き期間限定のものであった。
そのため、クラークが実際に札幌農学校で教鞭を執ったのは1年に満たない極短い期間だった。
当時の日本政府の、クラークへ対する信頼や期待の高さの、並々ならぬものであったことが伺い知れるエピソードである。

そんなクラークから直接の薫陶を受けた、札幌農学校1期卒業生13人の内に、「伊藤一隆」がいた。
彼は、日本プロテスタント教会発祥起点の一つとされる「札幌バンド」のメンバー18人のうちのひとりだ。
その伊藤が晩年暮らしたのが、ここ東中野である。
今の所、私はこの件につき、まだ特定できる資料をあたっていない。それ故、当時の彼の正確な所在は不明であるが、目星は付いている。
現住所で東中野1丁目、ラーメン店「好日」の向かいあたり、或いは3丁目の八百屋「丸忠商店」や町中華「十番」のある一帯だ。
大正13年から15年頃の住所で、東京市外東中野1062(現1丁目58の辺り)、或いは同1766(現3丁目17から18の辺り)である。
個人的には3丁目が正解であろうと思っている。何しろ目の前に、前述したプロテスタント系教会の東中野教会が当時からこの地にあるからだ。
まあ、さっさと当時の火保図を開けよ、という話だが。
興味のある方は当時の火保図に当たってみては如何であろうか。
なお、余談だが、この「伊藤一隆」の玄孫(やしゃご)に当たるのが、中野在住有名タレントの「中川翔子」さんである。

札幌農学校二期生には、新渡戸稲造や内村鑑三がいた。この二期生達は、前述の事由によりクラーク博士直々の薫陶は受けていない。それにも関わらず伊藤ら一期生のすすめによりメソジスト派のクリスチャンに改宗している。
そして、彼らが中心となり「札幌バンド」は結成された。
しかし、後にこの札幌バンドの面々はメソジスト派とは袂を分かつ。
新渡戸稲造は、クェーカーに、そして内村鑑三は無教会派に夫々の道を歩むことになる。

そして、東中野からは少し離れるのだが、その近隣或いは直近の地に、前述した札幌バンドのメンバーの関わりがある、そう聞けば貴方は何を思うだろうか?

熱心なクェーカー信者となった新渡戸は中野通りの手前、大久保通りの交差点付近に、新たに設置される病院に出資することになる。現新渡戸記念中野総合病院の前身である。
また、内村鑑三は東中野近郷の淀橋柏木(現北新宿)の地に居を移し、柏木聖書講堂「今井館」を構た。彼はここを無教会派の拠り所とし、その布教に心血を注ぐことになる。

これらは、東中野の現区検通りから大久保通りへ出て左手、東に向かえば「今井館」、右手、西に向かえば新渡戸記念病院へ至ると言う立地である。この交差点は、言わば「札幌バンド十字路」だ。
晩年の伊藤一隆は度々今井館を訪れ、時には聖書の講義を受け持つこともあった言う。

新渡戸は出資者というだけであり、当地で布教活動を行った訳ではないが、この地に嘗てのメンツが集結したのは、単なる偶然なのだろうか。或いは、三者の申し合わせによる意図的ものなのか、その真相は今となっては知る由もない。

そして皮肉なことには、元「今井館」のあった近隣に、今では中央栄光教会と言う韓国系メソジスト派の教会が建つ。
メソジスト派と袂を分かった内村は何を思うだろうか。

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