核心・上海列車事故~第4章・奔走-上海での教師たち-~
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核心・上海列車事故|上海列車事故の備忘録|note
【糾弾された教諭たち】
この章では上海列車事故の発生時、生徒を引率していた高知学芸高校の教諭たちが現場においてどのように動いたのかということを追っていくこととする。
この上海への修学旅行へは男性8名と女性1名の計9名の教員が高知から生徒を引率し、うち男性教員1名が犠牲になった。辛くも上海から生還した教諭たちはその後、針の筵に座らされることとなる。「大勢の生徒を死なせておきながら生きて帰った」という事実それ自体が自ずと世間の視線を厳しくしたが、殊にのちに学校を相手取って民事裁判に打って出た一部遺族の怒りは当然、この引率教諭たちにも向けられた。
メディアの取材にも遺族は教諭たちを無能・怠慢の極みと糾弾している。この考察シリーズの主題である死亡生徒の誤認騒ぎを、遺族は教諭たちの無能の象徴的逸話として断罪している。遺族の側の話ばかり聞いていると、生き残った引率教諭たちがあたかも事故現場でずっと口を開けて突っ立っていた様子すら浮かんできてしまうかもしれない。
しかし、いかに教諭たちが重い道義的責任を負うべきだとしたとして、それは正しい実態を伝えているのだろうか?今回、資料を参照しつつ可能な限り丹念に現場の動きを追った結果、浮かび上がったのは教諭たちの怠慢ではなく、むしろ献身的に現場を奔走した教員たちの姿だった。
【裁判資料から】
本章の検証にあたり、主要な根拠資料としたのが前項にも言及している民事訴訟の判決文である。
高知地方裁判所 平成元年(ワ)78号 判決 - 大判例 (minorusan.net)
以下に教諭たちの上海での行動に係る部分を引用する。当該部分だけでもかなりの長文となるが、考察に不可欠な根拠資料であることからご容赦願いたい。
また、なるべく簡潔に教諭たちの当日の動きが追えるように、目次の最後【まとめ表】にて1枚ものの図表に集約を試みたので、先にそちらに目を通していただいても構わない。
以下引用
※これより引用する部分は以下の上海列車事故の説明記事にて引用した判決文の続きの部分である。)
【説明】上海列車事故がどのように発生したか|上海列車事故の備忘録|note
引率教員らは、死亡した川添教諭の他、羽方教諭が右鎖骨・肩胛骨骨折(全治六週間)、中川教諭が右股臼骸部骨折等(同四カ月)、狩野教諭が腰椎捻挫等(同一カ月)、山下教諭が右下腿打撲(同三週間)、尾崎教諭が頚部捻挫(同一週間)の各傷害を負つた。
6 救出活動等
(一) 本件事故直後から、駅の操車場の作業員、さらに近隣の農家、工場からも多数の中国人が集まり、救出活動が始まつた。
一号車では被害が比較的少なく、負傷した生徒が数人いる程度であつたが、前方や右側の入口は潰れていたので、左側入口から順次外へ出た。そして、一号車に乗車していた坂本、鵜川、小松の各教諭は、二号車、三号車の様子を見た後、救出作業の始まつた三号車からの脱出を手伝つた。
三号車では、事故直後は車外に出ることはできず、集まつた農民らが左側前方の窓を鍬で割り、さらに、右側後方の窓を作業員がハンマーで割つて、事故後二〇分以上して、窓から信号塔の梯子を使つて降りるなどの脱出が可能となつた。
しかし、二号車は破損が激しいため、内部からの脱出は容易でなく、二〇八次列車に乗車していた童禅福記者が窓から車両内に入り、ごく狭い空間で救出活動等を行い、また、中国の軍・警察等も集まり、車両の周囲は救出活動等に集まつた中国人で一杯になり、二号車に梯子をかけ、天井から中に救出に入るなどしたが、救出作業ははかどらなかつた。
(二) 車両から出た生徒らは、中国人に次々と誘導され、また、救急車も順次到着し、負傷者を病院に送り始めた。車外に出た引率教員らも、位置がばらばらで、現場で打合せすることもできないまま、中国鉄道係員から現場を離れるよう指示され、手を取つて誘導されたり、通訳から怪我をした生徒達の引率を促されるなどして、ほとんどの教員は、車外に出た生徒と共に、避難所とされた南翔駅集会所まで退避した。このような状況下で、中川教諭は負傷した生徒と共に南翔医院に向かい、負傷していなかつた鵜川、小松、坂本の各教諭らは現場に残つたが、このうち、坂本教諭は、少し遅れて、負傷した生徒を同行して避難所へ向かつた。
また、日本交通公社の明神添乗員は、二号車から松田、中山両添乗員が救出された時点で匡巷駅に向かい、同駅から午後三時四〇分ころ同社上海事務所に電話連絡し、同事務所から日本に第一報が送られた。
(三) 南翔駅の集会所で落ち合つた引率教員らは、午後四時ころ、点呼を取つて不明者の名簿を作り、その時点では、生徒一二一名を確認し、川添教諭と生徒五八名が不明であつた。右一二一名のうち、まず、負傷者八名に坂本教諭が付き添い、さらにその後、負傷者五名に羽方教諭と松田添乗員が付き添つて、それぞれ南翔医院へ向かい、羽方教諭が午後五時四〇分ころ、同医院から国際電話で学校に連絡を取つた。また、他の一〇八名は、午後七時三〇分ころ到着したバス四台に分乗し、狩野、尾崎、山下の各教諭が各バスに分乗して新苑賓館に向かい、午後八時四五分ころ到着した。
(四) 事故現場では、中国の鉄路局長や上海市副市長等が責任者となり、陸、海、空三軍、武警総隊等を中心として、消防車一七台、交通指導車三〇台、救護車二五台が出動し、一〇〇余名の医学専門家と三一〇〇余名の医務員などが救出作業に従事し、救出された負傷者や遺体をその都度南翔医院のほか、普陀区中心医院、中山病院、華東医院、華山医院、八五医院、長征医院、第一人民医院の各病院に分けて搬送した。
そして、現場では、手作業で邪魔になる車両構造物を取り除き、あるいは焼き切り、さらに、その熱による火災を防止するための放水を行うなど作業は難航し、最後の遺体が搬出されたのは、翌二五日の午前二時三〇分ころであつた。
その間、尾崎教諭、羽方教諭らは、現場付近に戻ろうとしたこともあつたが、多人数の救助活動が行われており、現場に近づくのを制止されるなどしたため、引き返した。
現場に残つた鵜川教諭、小松教諭、明神添乗員らは、制止されたため直接の救出作業はできなかつたが、避難を勧められても残留を要望して黙認され、午前三時三〇分ころ列車内に残留者がいないのを確認した上で、現場を離れた。
(五) 新苑賓館に入つた引率教員らは、改めて点呼をとり、学校に三〇分間隔で情報を連絡し、その後、上海外事弁公室職員の案内で、まず、狩野教諭、尾崎教諭が各病院を回つたのを皮きりに、午前四時ころからは羽方教諭、山下教諭が、現地から戻つて南翔医院で待機していた鵜川教諭、小松教諭と合流して各病院を回り、午前一〇時ころまで遺体・負傷者の確認を行つた。
そして、普陀区中心医院で川添教諭、乙山一郎他九名、中山病院で丙川二郎他四名、華東医院で五名、華山医院で三名、八五医院で甲野春子他一名、長征医院で一名の死亡が確認された。
引用ここまで。
【羽方教諭についての補足】
今回はもう一点、高知新聞の記事を検証の参考としている。
参考資料:高知新聞 2010.04.03 朝刊
『時の碑 22年目の上海列車事故』(10) 「勇気がなかった」
この記事においては当時の引率教員が取材に答えている。記事内では匿名ではあるものの、事故当時は2号車に乗車していながら事故の瞬間は3号車に見回りに立っていた(※)ということなどから引率教員のうち羽方教諭であることは間違いない。
今回は前項の判決文に記載がなかった部分の羽方教諭の行動の参考資料として活用するにとどまったものの、この記事自体は上海列車事故を羽方氏がどのように悔恨してきたのか胸の内を明かしている読み応えのある文章である。
なお、前項の判決文では、羽方教諭と尾崎教諭が一度事故現場に戻ろうと試みた旨が書かれているが、判決文の書き方からだと各々病院やホテルから戻ろうとしたと読み取れそうになるが、当該記事によれば羽方教諭が現場に戻ろうとしたのは事故直後のことである。翻って尾崎教諭についても事実上は時刻不明といえ、次項の「まとめ表」には記載していない。
※・・・羽方教諭が事故の瞬間、3号車に行っており難を逃れた事実は事故直後の高知新聞に言及あり。
【まとめ表】
以上の資料に基づき、上海列車事故当時の引率教諭たち各々の行動を取りまとめたのが以下の図である(拡大しての参照を推奨)。
表にあるように狩野教諭と尾崎教諭が安否不明の生徒の確認のため周辺病院を回るために出発した時刻は不明である。20時45分にホテル(新苑賓館)に到着し、無事だった生徒たちに食事を取らせるなどの段取りをしてから出かけるとすれば、机上の計算をもってしても最も早くて21時30分出発が限度であろう。実際は羽方教諭がホテルに到着するのを待ってからの出発となったと思われ、早くても22時、実際はもっと遅い時刻の出発だったと考える。
坂本教諭においては無事だったにもかかわらず、南翔病院まで負傷生徒を連れて行って以降の情報がないが、南翔病院にとどまっていたものと推察する。南翔病院には先に中川教諭が赴いていたものの、1人だけで大勢の負傷生徒の世話をすることは困難であり、加えて中川教諭は本来であれば行動不能でもおかしくない程の重傷だったため、坂本教諭の役割は重要だったと思われる。
なお、当考察シリーズの主題はあくまでも「死亡生徒の誤認はなぜ起きたのか」ということである。表の下部に赤文字にて当該部分の参考時刻(第2章参照)を記載している。
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