核心・上海列車事故~第3章・荼毘に付された3生徒~
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核心・上海列車事故|上海列車事故の備忘録|note
※引用資料中の生徒の氏名は仮名とします。
※考察の必要上、遺体の状態に言及している記述があります。
※病院名は資料によって「病院」と「医院」が混在していますが同義です。中国での正確な名称は「医院」だと思われます。
【北寺塔】
上海列車事故の発生直後は全国紙も地方紙も新聞各紙は連日いくつもの記事を載せて続報を伝えていたが、とりわけ地元の高知新聞においては密度が高い報道が行われていたことは言うまでもない。
そんななかでも事故翌々日の1988年3月26日付の高知新聞夕刊、社会面に大きく掲載された写真はモノクロにもかかわらず際立って目を引くものだったのではないだろうか。辛くも難を逃れた高知学芸高校の生徒たちは事故翌日の3月25日夜にチャーター機で高知へ帰郷していたが、そのなかの女子生徒の一人・小原玲子(仮名)から提供を受けた写真だった。
撮影場所は北寺塔(蘇州)の最上階。小原玲子(仮名)が親友・津野千代子(仮名)と一緒に撮った写真だった。高校に上がってからクラスは別々になった2人だが、中学時代からの大親友だった。写真の撮影時刻は3月24日の午前中。上海列車事故が発生するほんの数時間前だった。事故で死亡した生徒27名は男子17名と女子10名。その10名の中に津野千代子(仮名)がいた。モノクロ写真の向こうからすら鮮やかな青春の輝きを詰め込んだかのような笑顔を浮かべるこの少女はこの日、このあと数時間後に、この制服姿のままで突然命を奪われたのだった。
【荼毘に付す】
翌朝・3月27日付の高知新聞朝刊が伝える内容は、それまで報じてきた悲痛な様子に輪をかけて涙を誘うものだった。既に身元が判明し、上海に赴いた両親や家族らと涙の再会をした生徒と教諭27名(男子生徒1名は帰国後に死亡)の犠牲者たちの亡骸は27日午後にも無言の帰宅を果たすことになっていたが、このうち生徒3名は遺体の損傷があまりにも激しいことから3月26日をもって既に現地で荼毘(だび)に付したとのことだった。いずれも高校1年生で16歳。男子生徒2名と女子生徒1名。そしてその1名こそは、あの写真の中で微笑んでいた津野千代子(仮名)だったのだ。
以下、高知新聞1988年3月27日付朝刊より一部引用する。
― 「こんな所でお骨に・・・」。26日夕、死亡した高知学芸高の教諭、生徒27人のうち3人の生徒が上海市で荼毘に付された。遠い異国の地でのあまりに残酷で無念の火葬。肩を震わせ、遺族は棺を前に号泣した・・・
― 上海市の西南、郊外にある竜華火葬場。荼毘に付されたのは弘田孝行君(仮名)、山下修志君(仮名)、津野千代子さん(仮名)の3人。できれば、そのままの姿で高知へ連れて帰りたかったが。だが、「遺体の傷み具合がひどく、やむを得なかった」。団長の狩野義夫教諭は泣きながら言う。・・・
― 事故後、そのままの状態にされていた3遺体はやっと清められた。血に染まった制服を脱ぎ、父、母が高知から持ってきた着慣れた服を体につけた。そして、納棺。葬儀場の遺体安置所から棺を打つたまらない響きが葬儀場の静寂を破る。弘田孝行君(仮名)の母親が安置所から飛び出し、前の通路で立ったまま号泣する。何か言おうとしているが言葉にならない。涙を拭こうともせず、周囲をはばからず泣いた・・・
― 津野千代子さん(仮名)だけは遺族の到着が遅れ、荼毘は深夜になった。一家はクリスチャンだという。「あの列車にのる直前、彼女は“先生、アベックで歩こう”と言って僕と腕を組んでおどけた。それが1時間後には・・・。3人ともせめて高知できちんとしたやり方で荼毘に付したかった。みんなこれからの人生だったのに」と狩野教諭は涙を浮かべた。あまりにもむごい16歳の上海の春である。
引用ここまで。
【首のない遺体?】
さて、上海で荼毘に付されてしまったこの3名はどのような傷を負って亡くなったのだろうか。この3名の詳細な遺体の状態に言及している資料は(私がこれまであたったものの中には)見当たらない。隣国とはいえ外国で政治体制が大きく異なる国での事故だけに取材に限度があったのかもしれない。それがなくても良くも悪くも令和の現在よりも規制が緩かった当時のメディアをもってしても報じられることばかりではなかったのかもしれない。
遺族の一人、中田喜美子さんはこの事故で娘を亡くし、高知学芸高校の責任を追及し続けているが、2013年にそれまで調べ続けたことをまとめた『シルクのブラウス』という本を上梓しているが、この中では男子生徒の少なくとも1名は顔の判別が容易ではないほど頭部への酷い損傷があったことが示唆されている。高知新聞の別の記事でもこの3名かは不明だが頭部への外傷が酷い遺体があったことが生々しく書かれている。
昭和63年(1988年)4月8日発行の週刊朝日は紙面のかなりの分量を割き、幾つもの記事を掲載して上海列車事故を扱っている。その最初の記事に事故現場にほど近い場所にあった線路の保線区事務所の職員の証言があった。この職員は3両目に覆いかぶせられて潰れた2両目の車両の屋根と床の間に50センチほどの隙間を見つけて血が広がる床を這いながら生徒たちを救助したという。事故発生当時は小雨が降っていた。しかしやがて雨がやみ、ときおり差す木漏れ日が潰れた2両目車内の無惨な光景を浮かび上がらせたという。彼は言う。「頭のない死体もありましたよ」と。
頭部がない遺体についての言及は他にもある。中日新聞の1988年3月25日付夕刊の社会面には当時特派員として上海にいた迫田記者による詳細な報告が掲載されているが、その一文に次のようなものがあった。「南翔病院に収容された遺体は2人で、うち1人は女性。医師の話によると女性の遺体は首がなかったという。」
先述の『シルクのブラウス』には事故の全28名の犠牲者(帰国後に死亡した男子生徒1名含む、対向列車の中国人運転士除く)の遺体収容先が氏名とともに詳しく記されている。
収容先の病院は全部で7ヵ所。南翔医院に4名、普陀区中央医院に11名、華山医院に3名、華東医院に5名、八五医院に2名、長征医院に1名、中山医院に2名。
このうち南翔医院の4名の内訳は男子生徒が3名と女子生徒が1名。その女子生徒は津野千代子(仮名)である。
中日新聞に書かれていた女性の遺体は津野千代子(仮名)のことなのだろうか。果たしてそのような状態の亡骸であれば、現地で荼毘に付すという判断を下すとしても不思議ではない。しかし、いくつかの報道資料はそれを否定する。
1988年3月28日付の高知新聞朝刊の1面は、前日27日に高知空港に遺体と遺骨となって両親とともに帰郷した犠牲者たちのことを報じているが、そのなかに津野千代子(仮名)の父親の談話があった。「事故現場を見てただ茫然とした。」「娘の顔を見た瞬間、安らかな顔だったので天国へ召されたのだなと思いました。」と気丈に語ったようだった。彼女の母親も別の場にて「上海にて、静かに横たわる無言の娘に対面し美しい顔を見た時、娘は苦しみではなく、幸せを抱いて天に召されていったと確信できた」。と語っている。
以下にもう一点、写真資料(出典:FOCUS)を掲げる。1988年3月26日夜に上海の竜華火葬場にて荼毘に付されるのを待つ事故の犠牲者とのことである。先述のとおりこの事故の犠牲者のうち遺体の損傷が激しい3生徒が上海で荼毘に付されているが、このうち男子生徒2名は明るい時間帯に荼毘に付されている。当時の朝日新聞や読売新聞や毎日新聞の記事には夕空に無常の煙が2筋立ち昇る様子が書かれている。
つまり暗くなってから撮られたこの写真の遺体は女子生徒・津野千代子(仮名)だと推測できる。少なくとも私の目には、このシーツに覆われた遺体は五体揃っているように見える。