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漫画「鬼滅の刃」と早期がん狩りを生業とする内視鏡医が今思うこと。

 吾峠呼世晴氏の漫画『鬼滅の刃』は、鬼に家族を奪われた少年・竈門炭治郎が、鬼を討つ専門組織である「鬼殺隊」に身を投じ、凄絶な修行を経て仲間とともに鬼と戦い抜く物語である。その世界において、鬼殺隊を経済的・社会的に支え続けたのが、産屋敷一族だった。彼らは潤沢な資金と人脈をもって鬼殺隊の活動を裏方から支え、刀や資材、隊員たちの療養先に至るまで整えることで「鬼狩り」という特異な事業を存続させていた。

 一方で、現代の医療を俯瞰すると、我々医師が担う「ポリープ狩り」や「早期がん狩り」といった消化器内視鏡分野をはじめ、あらゆる先端医療や日常診療は「皆保険制度」という盤石な財政基盤の下で展開されている。この皆保険制度は、まさに現代社会における「産屋敷家」のような存在といえるだろう。日本における国民皆保険制度は、国民全員が健康保険に加入し、一定水準の医療を経済的負担少なく受けられるようにする強固な枠組みである。これは、強靭な経済的バックアップなしには成立しえない社会的秩序であり、医療者にとっても不可欠な支柱である。

 ところが、その皆保険制度は近年、原材料や医療機器、医薬品の価格高騰や高齢化社会の進行、医療需要の爆発的増加といった要因によって逼迫している。年々増加する社会保険料の重圧が国民を苦しめ、医療提供体制を支える財源は揺らぎつつある。もし、産屋敷家が資金難に陥り、刀鍛冶や屋敷の維持がままならなくなれば、鬼殺隊はどうなっていたであろうか。同様に、もし現代の「産屋敷家」たる皆保険制度がその機能を失ったとしたら、医療者—特に高度な専門的手技を担う大学病院勤務医たちはどう感じ、何を考えるのだろうか。

 鬼殺隊は「鬼狩り」を生業としている。その隊士たちは「全集中の呼吸」によって身体能力を高め、独自の「型」を用いて鬼を屠る。内視鏡医もまた、内視鏡的粘膜切除(EMR)や内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD)など様々な「型」を習得し、内視鏡という洗練された「刀」を用いて微小な病巣を逃さず確実に切除する。「鬼狩り」は人を喰らう妖怪を滅するため、「ポリープ狩り」や「早期がん狩り」は人体内部に潜む将来の悪鬼—すなわちがんを未然に摘み取るための行為である。ここには高い集中力、技術的研鑽、相手(病変)を見極める目が必要とされる。鬼殺隊士が鍛錬の末に到達する心技体の境地は、内視鏡医にとっても他人事ではない。厳しい修練、豊富な臨床経験、迅速な判断力、そして患者を思う優しさと責任感が、その背景には横たわっている。

 だが、鬼殺隊士は産屋敷家の庇護なくして存続できただろうか? 日輪刀を鍛える刀鍛冶、傷ついた身体を癒す「隠」や「藤の花の家紋の家」、そして何より「鬼殺隊」の存在を公にはせずとも陰で支え続ける一族の財力と組織力。それらがなければ、鬼狩りの文化や技術は維持困難だったかもしれない。同様に、現代医療者もまた、国が整えた皆保険制度という枠組みに支えられ、安定したフィールドで自らの技術を振るうことができる。医療費抑制策や薬価改定が絶えず行われる中で、国家は苦心し、国民は保険料という形で支えている。そのおかげで、高度医療機器と人材の確保、質の高い医療サービスの提供が可能となる。

 しかし、その皆保険制度が長期的な継続に黄信号を示しつつある今、われわれ消化器内視鏡医、あるいは大学病院で研鑽を積む「鬼狩りの柱」を自負する立場の医師は、何を思うべきなのか。もし産屋敷家が資金繰りに窮して刀を鍛えられず、鬼を討つ組織的後ろ盾を失ったら、鬼殺隊士はどうするのか。もし、皆保険制度が破綻しかけ、患者が自由診療でしか内視鏡検査を受けられず、金銭的ハードルが患者の受診行動を阻むようになれば、早期がんは発見されずに手遅れとなる例が増えるだろう。医療者は、経済的背景で治療が受けられない患者に手をこまねく状況を目の当たりにするかもしれない。

 鬼殺隊において、個々の隊士の力や精神力はもちろん重要だ。しかし、産屋敷家という存在が組織全体を統制し、方向づけし、継続性を保証していることが大きな鍵となっている。医療においても同じだ。どれほど一人の名医が斬新な技術を持っていても、それが万人に届かず、一握りの富裕層だけがその恩恵に与る世界では、社会全体の健康水準は維持できない。患者を問わず、必要な時に必要な医療を提供できる体制がなければ、「早期発見・早期治療」という理想も空念仏に終わる。

 高度な医療技術を支える経済基盤が揺らぐことは、鬼を倒し得る刀が作れなくなることに等しい。もはや「鬼」(がんや深刻な疾患)を追い詰めるための武器を磨くことさえ、経済的歯車が噛み合わなければ難しくなる。内視鏡医は、精妙な機器や高画質なスコープ、電気メスやクリップなどの処置具、鎮静剤や消耗品、さらには医療スタッフとの連携体制など、あらゆるインフラが揃って初めてその腕を振るうことができる。これらはすべて経済的裏付けがあってこその存在だ。

 我々大学病院の勤務医(特に教授・准教授)は、常に最新の治療、研究、教育を担う「柱」でありたいと願う。鬼殺隊における「柱」たちは、組織のトップクラスの実力を持ち、後進を育て、鬼殺隊全体を牽引する存在だった。大学病院の医師もまた、人材育成と臨床研究を通して医療界全体をリードし、未来の医療を切り開く使命を帯びている。しかし、その土台である皆保険制度が揺らぐなか、「柱」である我々は、何を守り、何を諦め、何を選び取るべきなのか。

 もし我々が「鬼殺隊の柱」としての誇りを内視鏡医療の世界で継承しているのなら、皆保険制度の困難に直面したときにこそ、その理念を問われる。経済的逼迫が原因で必要な検査や治療を先送りにする患者が増えれば、早期で狩れるはずの病魔は時機を逸し、進行がんとなって国民を苦しめる。そこに医師としての良心は耐え得るだろうか。

 想定される危機に際して、我々は二つの道を意識せざるを得ない。一つは、経済論理に寄り添い、提供できる医療を限定的にする道。もう一つは、制度改革やイノベーションによって、より効率的で公正な医療提供を模索する道だ。産屋敷家一族が先見の明と財力と信念で鬼殺隊を支え続けたように、現代社会もまた次の世代へ向け、何らかの再構築を図らなければならない。より適正な財源確保、医療費の適正化、先進的技術開発による省コスト化、予防医療の普及など、まるで産屋敷一族が数世代にわたって鬼狩りを継続したごとく、我々は医療制度維持のための「継戦策」を練る必要がある。

 このように考えると、「鬼狩り」と「ポリープ狩り」を取り巻く環境に潜む共通項が浮かび上がる。「狩る」技術があっても、バックアップがなければ継続できない。そのバックアップが揺らいだとき、個々の医師—すなわち「柱」たる我々は、ただ嘆くべきなのか。それとも創造的解決策を探り、新たな形で社会に貢献すべく行動を起こすべきなのか。

 鬼滅の物語が問いかけるのは、人と鬼、弱者と強者を巡る倫理や、支え合いながら困難に立ち向かう人間性の深みである。我々内視鏡医が直面する社会保障の揺らぎもまた、人々が互いを支え合い、その中で医師として何を成すべきかを突きつけている。「産屋敷家」に相当する皆保険制度が岐路に立った今、悪鬼滅殺が刻印された日輪刀を振るう柱のごとく、私は何を斬り、何を守り抜くのか。僭越ながら現代の「鬼狩りの柱」を自負する私が、胸中に秘める問いなのだ。

まあ、今日はこれぐらいにして「深く瞑想して解くとしよう。」(by 偉大なるマスター・ヨーダの言葉より)


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池原久朝 / Hisatomo Ikehara, MD, PhD
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