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坂本龍馬だけじゃない!船中八策を作った人々に迫る。

要約
坂本龍馬の名で広く知られる「船中八策」ですが、近年ではその成立過程に意外な人々が関わっていたとする説が注目を集めています。本コラムでは、土佐から出奔し諸藩や海外の動向を肌で感じた人物や、京都を追われた公家たちが携えていた意外な構想など、多彩な視点から当時の動きを見つめ直します。従来の「龍馬ひとりの発案」というイメージを大きく覆すエピソードの数々は、どのようにして連携を生み、誰と誰が手を結び、いかなる国づくりを見据えていたのでしょうか。
さらに、時代の大きな転換点を迎えた幕府や各雄藩が、どんな危機意識と未来構想を抱えていたのか――そこでは新政府樹立の案が、海を渡る異国の情報と融合しながら意外な人脈を通じて拡散していきます。一方、過激な尊皇攘夷派が公家や藩を動かし、龍馬たちが奔走する裏で、どのような政治工作が練られていたのかは謎に包まれたまま。こうした点について、本編では新資料や人物相関を紐解きつつ、幕末最大の“秘策”がどのように生まれ、どのように実行へと向かったのかを具体的に掘り下げていきます。ぜひ続きで、その真相に迫ってみてください。

1. 船中八策成立の背景

坂本龍馬による「船中八策」は、一般には慶応3(1867)年春頃に考案されたと伝えられる構想です。維新後に土佐藩の後藤象二郎が記述した草案などを通じて広まった説が有名ですが、近年では「龍馬ひとりの発案ではなく、多くの人物の意見を取り入れて出来上がったものである」とする見方も強まっています。
今回の史料には「土佐へ戻る道中で、坂本に尾崎三良が船中八策を授けた」「その原案作成に三条実美が大きく関わった」との言及があります。これは、船中八策が必ずしも龍馬単独の発案ではなく、尊皇攘夷派公家の中枢にいた三条実美の理念や、欧米の情勢を早くから知り得た尾崎三良の国際感覚が反映された可能性を示唆していると言えます。

2. 尾崎三良の関与

2-1. 長崎での国際感覚と龍馬・陸奥宗光との交流

尾崎三良(戸田雅楽)は、尊皇攘夷派の公卿・三条実美の家人として活躍していました。八月十八日の政変後、三条実美が長州へ落ち延びていた時期もそば近くに仕え、大宰府では撃剣や乗馬などを学びつつ、同時に「攘夷では国は立ち行かない」と実感し、開国や海外事情への関心を深めていきます。

そうした中、慶応3(1867)年頃に三条実美から「朝廷を中心とした新しい日本の在り方」についての諸考えを託されていたとも考えられます。そして同年、長崎へ赴いた際にアメリカ領事や坂本龍馬・陸奥宗光らと親交を結び、当時の外交事情や欧米列強の動きなど最新の情報を共有するようになりました。
さらに尾崎は、坂本や陸奥らとともに土佐へ向かった後、龍馬に「外国との対等な通商条約締結」「全国規模の政治体制の刷新」などを盛り込んだ構想を示したとされます。これがいわゆる船中八策に取り込まれた、とする説です。

2-2. 三条実美の思想を伝える「名代」として

尾崎三良は「三条実美の名代」として薩摩や土佐、また西郷隆盛や岩倉具視ら尊皇派・討幕派の要人と連絡をとっていたといわれます。三条自身は公卿でありながらも、太宰府で幽居を余儀なくされていたため、代わりに尾崎三良が奔走して諸公卿・諸藩士をまとめ、情報や意見を交換する役割を担っていました。
このとき、三条が長年抱いていた「朝廷中心の新政権構想」や、「雄藩連合」をにらんだ政治体制の転換案が、尾崎を介して坂本龍馬・土佐藩首脳に伝えられ、最終的に「船中八策」という形でまとめられていったとみることができます。

3. 三条実美の役割

3-1. 尊皇攘夷派の中心から開国・討幕の立役者へ

三条実美は幕末期、尊皇攘夷派の中心的存在として孝明天皇に攘夷を迫る勅命を引き出そうとした人物の一人でした。しかし八月十八日の政変(1863)により長州藩とともに京都から排除され、いわゆる「七卿落ち」となります。のちに太宰府天満宮の延寿王院で幽居し、長州の志士たちや薩摩をはじめとする諸藩との連携を深めていきました。
この過程で三条は、幕府と真っ向から戦うだけでなく「外国を排すのではなく、むしろ開国により新政府を作るべきだ」という方向に考えを転換し、岩倉具視らとも和解に至ります。

3-2. 大政奉還への布石

慶応3(1867)年秋、坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ土佐勤王党の面々は、山内豊範(容堂の後継者)を通じて幕府に対し朝廷への政権返上を建白しました(いわゆる「大政奉還建白」)。その背景には、薩長連合や肥前藩など“反幕”勢力の連携が整ってきたことも大きいのですが、一方では「穏便に幕府の体面を保ちつつ、新政権へ移行する」方法を模索する動きが活発化していました。

三条実美は公卿の身分ゆえに直接的な討幕行動はとれない立場でしたが、岩倉具視と図りながら朝廷に戻る手筈を進め、薩長や土佐との橋渡し役として暗躍しました。その結果、朝廷側も武力衝突を回避しつつ徳川慶喜を退陣させる方策を検討するようになり、龍馬らが構想していた「船中八策」の要点、すなわち「議会の設置」「憲法大綱の制定」「通商の推進」「藩の統合・連合政権」などが朝廷でも大きく支持される土壌が出来上がっていきます。

4. 船中八策から大政奉還への道筋
1. 坂本龍馬らによる構想の具体化
• 長崎での海外知識や列強との交渉経験を踏まえ、龍馬と陸奥宗光・尾崎三良らは「新政府の制度改革」「軍備と外交」「商業振興」などを折り込んだ改革案を練り上げる。
• 尾崎三良は三条実美からの政治理念をもとに、西欧法制や国際情勢を踏まえたアイデアを龍馬に伝授したとされる。
2. 土佐藩による大政奉還建白
• 同年10月3日、土佐藩主・山内豊範(実際は容堂が後見)を通じ、「大政を朝廷へ奉還すべき」という建白が幕府へ提出される。これは船中八策のうち「幕府が政権を朝廷へ返上し、新政府を立ち上げる」という核心部分の実行を迫るものとなった。
3. 岩倉具視・三条実美の動き
• 岩倉や三条らは、朝廷内での議論を通して幕府に対して和平的に政権を返上させるシナリオを準備し、武力衝突を最小限に抑える狙いを強めていった。
• こうした朝廷側の後押しが奏功し、慶応3年10月14日、徳川慶喜はついに大政奉還を決断する。
4. 大政奉還成立と討幕への流れ
• 10月14日付で朝廷へ大政奉還が奏上され、事実上の幕府政権は終わりを迎える。
• ただし、翌月には「小御所会議」を経て徳川慶喜の処遇をめぐる対立が激化し、結果的には戊辰戦争へ突入していくことになる。

5. まとめ

船中八策は、坂本龍馬が薩長同盟を後ろ盾に土佐藩を動かし、幕府からの政権返上(大政奉還)を引き出す上で重要な理念的旗印となりました。ところが近年の研究では、「船中八策」は龍馬独力の発想にとどまらず、海外事情に通じていた陸奥宗光や尾崎三良、さらには三条実美など、幕末各層の思惑・知見を集約した総合的な新国家構想であったと捉えられています。
三条実美は、幕末から維新へ向かう動乱の中で、最初は尊皇攘夷の急先鋒として失脚しながらも、海外情勢や幕府の実情を知るに及び、討幕派をまとめる中心人物の一人へと転じました。そして、下級武士や諸藩の志士と直接行動を共にしにくい立場にあったため、その名代として尾崎三良のような人物が要となり、薩長・土佐・公家勢力を結びつける架け橋になったと考えられます。
こうした複合的なネットワークが下支えとなり、龍馬の船中八策が具体的な政治方針として展開され、やがて大政奉還が実現したのです。大政奉還はあくまで政治権力の朝廷への返上という穏健策でしたが、最終的には旧幕府勢力の抵抗や朝廷内の意見対立により戊辰戦争へ突入していきます。しかし、それでも船中八策が提起した新政府構想が、多くの政治指導者たちの共通認識へと昇華していき、明治維新後の新国家づくりに大きな道筋をつけたことは間違いありません。

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池原久朝 / Hisatomo Ikehara, MD, PhD
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