人間疎外を軸にマルクスの宗教論・経済学・哲学を接続する


マルクスの思想的課題は、人間疎外の状況からどのように人間に力を取り戻すか、ということです。疎外とは人間が世界の主人公ではない状態です。ただし、その疎外は元々人間が作ったものによって起こったというのがポイントです。

マルクスのスタート地点はキリスト教でした。

マルクスからすれば、キリスト教は種々の教えによって本来は人間のものである愛や自由や理性を人間から奪い、神の占有物としてしまっています。元々の神の占有物を被造物である人間に分け与えている状況です。

しかし、これはマルクスの一般的なイメージ(共産主義者や「資本論」の著者)とはズレますね。キリスト教の源流であるユダヤ教をマルクスの視点で見てみましょう。

マルクスはユダヤ教を本来的に貨幣崇拝の宗教と捉えました。キリスト教はその流れを受け継ぎ、人間の本来の力を神の占有物とした、ということになります。

ユダヤ教の貨幣崇拝的な要素により、商品経済が発達します。その結果、人間は基本的に利己的動機に動かされるようになり、宗教を通してしか同胞との連帯(利他的な関わり方)が出来なくなります。キリスト教はこの現状を観測して、愛や自由や理性は神の占有物としたのです。これがマルクスの宗教の見方です。

マルクスは宗教批判で終わりませんでした。キリスト教による人間疎外の源流にユダヤ教があり、その前提には商品経済があるからです。そこで、マルクスは労働をはじめとする社会関係の中で、直接に(つまり宗教を通さずに)連合・結合できる社会像を描く仕事をしました。ここに、人間疎外という出発点と共産主義者マルクスが一致します。

『経済学・哲学草稿』

マルクスの経済学批判の出発点は『経済学・哲学草稿』です。

この著作では、資本主義が「労働者は自らの労働力以外の生産手段を持たず、際限のない利潤が生産の目的となる社会形態」と考えられています。

これによって4つの疎外が生み出されます。

・生産物からの疎外:労働者は自ら生産した生産物を所有できない(自分に現物支給されず、どこかに売られる)

・生産活動からの疎外:本来は自由な意志の発現である労働が資本家の命令への服従になる

・類的本質からの疎外:人間の本質である自由をかなえられない(自由な意志の発現である労働を制限されるため)

・人間の人間からの疎外:職場の同僚からの疎隔感や階級間の対立

マルクスは解決策として3つの共産主義を検討します。

1つ目が「粗野な共産主義」です。これは私有財産の普遍化とされています。一見、資本主義と同じに見えますが、そうではありません。資本主義では人身売買は認めないからです。労働者が賃金奴隷と表現されることがありますが、労基法によって労働時間が制限されているため、人身そのものを売り渡しているわけではありません。

当然、人身売買が人間疎外の解決策になりえないのでマルクスは否定します。

2つ目が「いまなお政治的な次元を抜け出ていない共産主義」です。これは国家などによる私有財産のコントロールです。ソ連をはじめとするいわゆる「共産主義」はこの段階にあたります。

3つ目が「第三の共産主義」です。これは私有財産の積極的放棄(国家による強制ではない)によって、人間の「類的本質」を再獲得するものだとされています。

「経済学・哲学草稿」は資本主義批判にはなっていますが、

1.批判の対象である人間疎外がどのように成立しているのか

2.「第三の共産主義」はどのように実現されるか

ということが考察されていません。

1は『ドイツ・イデオロギー』で、2は『資本論』で考察されます。

『ドイツ・イデオロギー』

『ドイツ・イデオロギー』では分業が疎外に発生要因だとみなされています。

分業には3つの段階があります。

A.自然発生的分業

B.精神的・物質的分離を転換点として、政治と宗教の自立

C.所有の発生、分業と私有の結節点において国家が発生→資本家と私有財産の保護

Aの自然発生的分業は、文字通り人々が協力する中で勝手に出てきた分業です。アダム・スミスが「国富論」で考察したように、分業によって社会の富は増大します。

このような社会の富の余剰は知識人階級、つまり直接には生産に関わらないが富の分配を受ける人々を生み出します。これが、Bの分業です。知識人階級とは例えば技術者や官僚などです。宗教指導者もこれに入ります。社会の余剰生産によって広い意味での統治機構が肥大します。

統治機構が肥大しきった結果、国家が発生します。国家は富の余剰生産にその発生を依存しているので、それを取り仕切る資本家や実業家を保護します。つまり、私有財産を保護します。

『資本論』

2の「第三の共産主義の実現」は『資本論』において示されます。

マルクスは『資本論』において、資本主義のメカニズムの合理性を解明することで、システムの不合理性を証明しようとしました。つまり、資本主義には短期的には合理的に見えるが、長期で見れば崩壊のロジック(不合理性)を含んでいることを示そうとしました。

その証明に必要なのが「価値論」と「労働商品論」です。

「価値論」は商品の価値について直感には反するが重要な考察を与えています。

私たちは直感的には、各商品には特有の(内在的な)価値があり、それが一致した時に物々交換が可能になると感じます。この場合、貨幣は物々交換を円滑にするためのものです。

しかし、マルクスは商品の価値は市場での交換が行われた後で事後的に見出されると考えます。各商品は質的に異なるものです。例えば、セーターから得られる便益(傍観機能)とシャーペンから得られる便益(文字を書く)はまったく異なるものです。

これらが物々交換された時に初めて、セーター=シャーペンという価値が成立します。繰り返しますが、セーターとシャーペンはまったく異なる便益をもたらすので、最初から同じ価値を持つとみなすことが出来ないからです。

貨幣によってセーター=100円、シャーペン=100円と示されても同じことです。マルクスの考えでは貨幣も特権化された商品だからです。

「価値論」をもとに「労働商品論」に移ります。

「価値論」の肝は、商品の価値は交換によって初めて定まるということです。言い換えれば、市場における交換はすべて等価交換です。交換されて初めてその商品たちは同じ価値を持つと見なされるからです。

これは資本主義の定義にある利益の増大が困難であることを示しています。しかし、実際には資本主義において利益の増大が起きています。商品の中に価値増殖を担う特殊な商品があるからです。それが労働力商品(労働者)です。

労働力商品も市場で交換される以上、等価交換と見なされます。ポイントは労働力商品の価格である賃金が労働者の生活費として設定されるということです。

労働者は基本的に連日で働くので、休息を取って次の日も元気に働いてもらう必要があります。賃金はそのために衣食住(+精神的休息としての娯楽)代として支払われます。その一方、労働力商品の便益は他の商品の生産にあります。もし労働者が自身の再生産に必要な量以上の商品を生産した場合、その商品から生まれる利益は資本家のものとなります。資本家はその余剰を資本蓄積に使います。労働者が自身の再生産に必要な量以上の商品を生産した時に発生する価値を「剰余価値」と呼び、「剰余価値」によって労働者の搾取が成立します。

マルクスはここまでを踏まえて資本主義崩壊のロジックを描きました。

1.労働者はより良い待遇を、資本家は利潤を追求するために生産性向上を社会全体で目指す

2.その結果、資本蓄積によって新技術が導入される。労働者の生活費が下がるので剰余価値が莫大になる。これが資本蓄積に拍車をかける

3.新技術の導入は労働者の生産過程からの排除をもたらす(機械に仕事を奪われる)

4.労働力商品は「剰余価値」を生み出せる唯一の商品だったので、利潤率が低下傾向を示す。資本蓄積が出来なくなり、労働者の貧困・失業が頂点に達することで資本主義は終了する

マルクスのロジックは現代では否定されているように見えます。機械が仕事を奪うと言っても、自動化の進展によって奪われた職業はエレベーターガールくらいだともされているからです。

資本主義の発展による社会主義の移行はJ.S.ミルの主題でもあります。現代の私たちだとミルの社会主義論の方が納得いくものがあるかもしれません。

参考文献
Routledge companion to Social and Political Philosophy 2016 Routledge
坂本達哉 社会思想の歴史 2014 名古屋大学出版会
峰島旭雄 1989 概説西洋哲学史 ミネルヴァ書房

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