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「1973年、秋は窓の外を通り過ぎる...村上春樹と青春...」心に浮かんできた言葉(034)

こんにちは「てると大吉」です。
先日、火星の夕日は青いことを知りました。もし、地球の夕日も青色とか、緑色だったら、清少納言は「秋は夕暮れ」と書いたでしょうか。

さて、秋の描写というと思い出す文章があります。それは村上春樹の*『1973年のピンボール』の最後。

☆双子の姉妹と暮らしていた僕。秋の朝、バス停で彼女たちと別れます。

バスのドアがパタンと閉まり、双子が窓から手を振った。何もかもが繰り返される・・・。僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバーソウル」を聴き、コーヒーを立てた。そして一日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった。 207頁

*『1973年のピンボール』 著者 村上春樹 株式会社 講談社 1983.3.10 第八刷

どうして秋になるとこの文章を思い出すのだろうと、不思議な気持ちになります。もしかすると若いころの経験と結びついている・・・。

たぶん僕が「青春が終わってしまう予感」を感じていた頃に出会った作品だから。

大学生のころの僕は「僕の居場所はどこなのだ」「僕は何者なのだ」などといった、いささか抽象的な想いが心に溢れていました。(それは今も心のどこかにあるのかも知れませんが・・・。)

その想いに自分なりの決着をつけた大学四年。その年の秋につながるのがこの作品なのかもしれません。いろいろな選択肢があったはず。最後は自分が納得するほかないのだと自分に言い聞かせ、ひとつの道を選択したこと。それを僕は秋の光のなかで実感していたのでしょう。

その想いは透明な膜のように僕を包んでいました。

何かを選ぶことは、選ばなかった何かと分かれること。誰かを選ぶことは・・・。若いころはそう考えていました。今なら「そんなに単純じゃないよ」とあの頃の僕に言ってやりたい気もします。

改めて『1973年のピンボール』を読んでいると、ずいぶんと遠くまで歩いてきたなぁという想いと、僕は相変わらずだなぁという想いなどが彩雲のように混ざり合い、それはそれでいいではないかと納得している僕がいました。

確かにそこにあったはずの時間。
そしていま僕はここにいる。それで充分です。

いささか感傷的な独り言です。ご容赦を。今週も読んでいただきありがとうございます。どうぞ良い一週間をお過ごしください。ー2024.11.11ー

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