テストに始まり、助けようぜで句点。【2024.01.06】
待ちに待った(?)社会学理論のテスト。
今回は事前にこの辺が問題になるかもという話があったので、そこを重点的に理解と自分の言葉に落とし込む準備をしてきました。
もしかして中間も言ってたのかな?聞き取れないくらいサラッと。
問題文を見て、手が止まって何も書けないということにはならなさそうだと思いつつ時間との勝負。8:30〜12:30の4時間、自分の中国語で太刀打ち。
自分は今回も手書きではなくパソコンで解答を作成することを許可してもらえたのでそれだけで解答の効率が上がります。繁体字とか難しいの書けないですよ…憂鬱の鬱レベル。
途中でパソコンの充電が無くなりそうになりながらも、それを見越し充電できる席に座っていたのでセーフ。
あとは祈るのみです。
友達も相思林のところに祈りの付箋を貼っていました。(エミール・デュルケームが宗教を規定するのに神聖性と世俗性のセット(区別)を一つに用いたという話題で、教授が神聖性は私たちが付与するものだから相思林に祈ってみなと言ったのが発端です笑)
ひとまず一区切り。
来学期までにもっと社会学について勉強する。
結局やる気が発生しなくて図書館に移動してレポートを書いている時、ふと大河内隆也という名前が浮かびました。誰か悩み部とか読んでませんでしたか?僕結構好きで読んでいたんですよね。もう一回読みたいな。
今日成人式の人もいたのかな?式とは別の集まりか?明日みんな成人式なんだね。
とあるラジオ。
懐かしくなった。同時に変化を感じた。
同時に変わらないものも感じた。
そして印象に残ったこと。
相対主義と普遍主義。
寛容しないということに対して寛容を表すことはあってはならないのではないか?とすればそれは普遍なのではないか、そうした方が良いのではないか?
どうして学ぶのか?
それは学ぶことは面白いから。
そして学ぶ理由は人を助けるため。
学びは力になる。
うん、一回括弧に入れてみても共感。
私やっぱ、1人で生きてくわって冗談だろ?
という歌詞が浮かんだ。
1人好きだけど、それだけじゃあ誰の役にも立ってないのを最近痛感したのです。
「助ける」という意識を持って生活しようとすると行動が変わるかもしれない。