私が幸せになるまで 〜統合失調症患者の考える幸福論〜

はじめに

最近幸せなので、幸福論について書いてみた。

が、なんか違う。
自分の言いたいことが言えてるようで言えてない。
この幸福感を表現する言葉が見当たらない。
それでも性懲りも無く幸福論を書く。
私の何かが人にとどけばいいと思う。
それが人を幸せにできればいいと思っている。

幸せは量ではなく質

そして今日たどり着いた答えがこれだ。
幸せは量ではなく質。
幸せになる素因はいっぱいある。
あとはそれをしっかりと咀嚼できるかだ。

マインドフルネスってそう言うことなのかもしれない。
「今」を突き詰めた時、不幸な人ってそうはいない。
餓死直前の人以外。
それは幸せだし、それを感じ取ること。
それがマインドフルネスの目的の一つなのかもしれない。

じゃあなぜ、それができない人がいるのか?
私が病気になってそれができるようになったのか?

自分と向き合う

病気になってやったことが自分と向き合うことだった。
わかりやすく言うと自分探し。
私は病気になり自分が揺らいだ。
今まで想像もしなかったような自分が存在することを知った。
それは恐怖だった。
そして、今までこうすれば幸せになると思っていたレールを歩けなくなった。

だから自分を探した。自分が何者かを考えた。
今までそんなこと考えたこともなかった。
ただこのレールを歩けばいつか幸せになれると信じていたから。
歩けなくなって初めて自分の幸せを考えた。

病気の受容

自分を探す中で自分には色々な人格があると知った。
特に自分ははっきり言って裏表の強いタイプだ。
そして病気になった私は自分は多重人格だと騒ぎ立てた。
今になって思うと顔から火が出る。
だが私にとっては必要なフェーズだった。
私は自分を特別な人間だと思おうとした。
でも、違う。
私は特別ではない「普通」の人間なのだ。
普通の人間が「統合失調症」になった。
それだけのことだった。

そしてなぜ苦しむのか?
人と比べるから、人にそして社会に勝とうとするから苦しいんだと。
人に勝つことは一時的な幸せで恒久的な幸せにはつながらないんだと。

じゃあどうすれば幸せになれるのか
ただ、ありのままを受け入れる。
自分が人間という生物の一個体に過ぎないことを受け入れる。
病気を受け入れる。
今の自分をそのまま受け入れる。

うーん。何だか宗教みたいになってくる。
だが先人たちはたどり着いているんだろう。幸せになる方法に。
そしてそれを必死に言葉にしようとした結果、今の宗教があるんだろう。

自分の宗教をつくろう

もうそれだったら自分の宗教を作ってしまうのがいいのかもしれない。
自分で自分にとっての幸せの形を決める宗教を作ってしまう。
そのためには自分を深く知る必要がある。
どうやったら自分を深く知ることができるのか?
それは対話だと思う。

まずは人との対話。
人は人と比べることでしか自分を確認できない。
だったら人と恥ずかしがらずにいろんなことを深く話し合ってみよう。

物語や音楽との対話
物語を読んだり見たり音楽を聞いたりしよう。
そして自分が何に心動かされるのか。心動かそうとしているのかを知ろう。

最後に

とりあえず今日思いついたことは書いた。
だが、明日になるとまた変わるかもしれない。
最初は簡単だと思っていたが、言葉で人を幸せにすることに難しさを覚える日々になってきた。
でも私は人を幸せにしたい。
私の言葉の何か一つでもいいので、誰かに刺さりますように

あっそうか。だから宗教ってよく祈るんだ。

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