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長崎で生まれ育った者として

高校の同窓生が関わっている「ヒバクシャ・ミライ・プロジェクト」のドキュメンタリー映画上映会へ行って来た

2023年11月
アメリカのノースカロライナ州ローリー
イリノイ州シカゴ
オレゴン州ポートランド
約2週間かけて、長崎の被爆者、被爆2世、被爆3世の10人が上記アメリカの学校や教会で21回講演
約1000人の市民と語り合った記録でした


アメリカ11月の2週間の講演と移動は高齢の被爆者にとっては大変な事だったろう
行くまでの準備も勿論、講演でメッセージを伝えたい強い気持ちがあっても、言葉が立ちはだかり、思うように伝わらないじれんまもあったろう中で、それでも前に進まないといけないし、かなり疲弊しただろう

見ていて辛い気持ちになった

ただ、アメリカの学生達が真剣に聞く姿を見ると確かに意味はあったと思う

それにしても、聞いてくれる人があまりにも少ない

被爆者の高齢化が進み、そう遠くない未来証言できる人はいなくなる

ならば2世、3世と言っても難しい
活動できるのは、学生か退職した人だけだ
そして、体験した人の話とそうでない人の話は、相手への伝わり方が違うと仰っていた

しかも、話したがらない人もいる
私の両親も多くを語らなかった
数十年は、差別もあったと思うし、いつ原爆が原因の病気になるか不安も抱えていただろう

大阪にいた私の父は原爆投下の1週間後に家族親戚を心配して長崎に入った
とても悲惨な状況だったと言っていた
母は造船所で働いていて爆風に倒された
両親は、十分放射能を浴びただろうに距離が足りない等の理由で被爆者とは認定されなかった

私が子供の頃何度か申請を試みたようだが「また駄目だった」と話していた

「広島は知られているけれど、長崎は知られていないが、どうしてか?」とアメリカで質問されていた

フィルムでは「怒りの広島、祈りの長崎と言われていた」と答えていた
補足して説明したのかもしれないが、フィルムには写っていなかった
私は相手が理解出来たと思えなかった

長崎という街は、歴史が浅く、鎖国時代に日本で唯一開かれた街で色んな人を受け入れていた
ただキリシタンの迫害があり、潜伏キリシタンを生んだ
信徒発見まで250年
爆心地近くの浦上天主堂は迫害が終わった後1895年に建設が始まり1914年に完成
そして1945年8月9日原爆で破壊された
15000人いた信者の10000人が犠牲になった

自ら被爆者で、被爆者の治療にあたっていた永井博士の住まい如己堂も平和公園のそばにある
永井博士もクリスチャンだった
「己のごとく、隣人を愛しなさい」は永井博士の言葉
そして長崎の鐘は有名な歌

爆心地が、祈りの場所のそばだった事も「祈りの長崎」に繋がっていると思う
祈りの長崎を理解してもらうのは困難だと

青いガラスの目で水色の衣を身につけていたマリア像も頭だけが残った
目は空洞
天主堂の横に被曝のマリア聖堂がある

右手は原爆を左手は平和を表している平和祈念像
この平和公園から東の方に浦上天主堂を見る事が出来る

これからは、核の怖さ、悲惨さを伝える事は更に難しくなって行くんだろう
どうすれば世界に伝わるんだろう

地道に伝え訴えていくしか方法はないのか

出来れば、長崎に観光に来た方は必ず原爆資料館を訪れて欲しい
先ずはそれだけを願います

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