『対抗言論』vol.3について➀安倍晋三銃撃事件
1月に発売された『対抗言論』vol.3(https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-61613-6.html)に『もののけ姫』論を書き、久しぶりに『F』以外の媒体で論考を出せた。近年は書くペースがだいぶ落ちてきていることもあり、そろそろ書きたいことを書きたいときに自由に書ける場所が必要だと思ったので、ひとまずは自分で自由に書けるメディアとしてnoteに登録した次第。
『対抗言論』vol.3を読み、刊行に際して行われたトークイベント「批評はいかにして暴力と差別に向き合うのか」(https://jinnet.dokushojin.com/products/event20230120_online)を視聴したので、考えたことをまとめておきたいと思う。
まず書いておかなければと思ったのは、安倍晋三銃撃事件についてである。事件が起こった当時、私は特に驚きもしなかったし、それについて何かを語る理由もなかった。多くの人がそうだったと思うが、あんなことをしていたらいつか刺されるだろう(唯一驚いたことがあるとしたら、刺殺ではなく銃殺だったことだ)と私も思っていた。これは安倍晋三が殺されてしかるべきだったという意味ではなく、誰かの人生や尊厳を踏みにじるような行為をする人間は当然のことながらその相手に復讐される可能性が高い、という確率論的な意味である。そういった意味において、麻生太郎や加藤勝信のような人間がまだ殺されていないという事実は驚くべきことであるように思う。
そのような経緯で、私はあの事件が起きたときに何かを書いたり語ったりすることはなく、誰が何を書いたり語ったりしたかも知らない。杉田さんの「山上徹也の革命……だが……」を読んだり、トークショーでの話を聞いたりして、なんとなく当時の雰囲気を想像するのみである。テレビやSNSにあふれていたであろう言説はだいたい察しがついた。もちろんこの社会を維持していくには建前が必要であり、建前を言うこと自体を否定はしない。だがやはりクリティカルポイントは、杉田さんが書いている以下のような点にあるように思う。
当然ながら、殺人も暴力も悪であるし、「暴力以外の方法もあったはずだ」と言う自由は誰にでもある。だが私は、山上氏を見捨てた社会の一員として、そういう言葉を口にする気には到底なれなかった。それがたとえ建前であってもだ。私は山上氏を助けられなかったばかりでなく、助けようともしなかったのであり、そもそも見ようとさえしていなかった。そして事件を知った後ですら、ほとんど心は痛まなかった。この世の中にありふれた、自分さえ幸福であればそれで良いという人間の一人なのである。
一方で、「我々は身代わりとして殺させてしまった」という思いは全くなかった。山上氏と思われるアカウントが、次のように書いていたとある。
私も一人の労働者であるからには、労働の剰余価値を搾取されていることになる。が、同時に、私のこの〈ある程度自由な生活〉は、誰かが搾取された剰余価値によって成り立っている側面がある。必ず、ある。私の生活を見た誰かが、「私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる」と私のことを恨んでいるかもしれない。であれば、私は山上氏に「身代わりとして殺させてしまった」のではない。むしろ私の身代わりは安倍晋三だったのかもしれない。
だが、山上氏が恨み、攻撃したのは、相手が「明確な意思(99%悪意とみなしてよい)をもって」いたと考えたからだ。だからこそ、杉田さんの書いているように「法律的に悪ではないこと」と「人間として悪であること」の関係こそが問われなければならないのだろうと思う。この社会における「人間として悪であること」とは何であり、誰がそれを行っているのか……。
だが、「人間として悪であること」を議論するのは難しいことだ。この社会では、多くの人が敵を見誤っているように思える。多くの人が、自らのために――自分の人生・生活・階級・思想のために――闘うことができない。例えば杉田さんはこの点について、「別に保守や右派や愛国者を信用しているわけではないが、しかしたとえ自分たちが不利益を被り不幸になったとしても、左派やリベラルをどうしてもやっつけたい、嘲笑したい」という「民族的絶滅志向の欲動」に言及しているが、私の意見はやや異なる。
確かに、日本の大衆の権力批判は「享楽の盗み」のファンタスムに絡めとられ、現実的な敵を見つけ出すことができていない。多くの場合、左翼やリベラル、在日外国人や福祉受給者たちを自分たちの上前を撥ねる敵に設定して攻撃し、溜飲を下げるだけである。もちろん、ここで妄想される特権や不正受給といったものが本当かどうかは、彼らにとって問題ではない。彼らは、自身が具体的に誰から・どのように・どれほど搾取されているのかを知らないのであり、厄介なことに、彼らはコストをかけてまで自分の本当の敵を知る必要もないのだ。それはとどのつまり、彼らの生活にリアルな権力批判は必要ない、ということである。現状に不満はある、だが本気でその現状を変えるほどではない、叩きやすい存在を叩いて時々憂さ晴らしができれば良い、ということだ。そこには、今この現実を変えるしかない、という切実さがない。結局のところ、現在の日本の大衆は本当の貧困を知らないのだ。
であれば問題は、「保守や右派や愛国者」は大衆の持つ現状への不満を「享楽の盗み」のファンタスムに絡めとってうまく利用しているが「左派やリベラル」はそれをしていないという、ただそれだけのことに思える。そういう意味で私は、「民族的絶滅志向の欲動」など存在しないと思っている。
左派やリベラルは、大衆の持つ現状への不満を「享楽の盗み」のファンタスムに絡めとってうまく利用するなどということは当然しないだろう。だが、「心地よい妄想を捨てて現実の敵と闘え!」という声が彼らに届くのか。「あなたたちに偽りの幸福をもたらす〈人間として悪であること〉に立ち向かえ!」という声が。普通の人は、自らのために――自分の人生・生活・階級・思想のために――闘うことができない。いや、そうしようとさえしない。時々憂さ晴らしができればそれで良い。であれば、いかに「理論」と「運動」を鍛え上げようと、左派やリベラルは負け続けるのではないか――これこそが「敗北の構造」なのではないか――と思えてならない私は、日本の社会を諦めすぎているのだろうか。
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