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車購入と合宿での思いがけない出来事
イギリスは車社会である。日本人によくある誤解は、イギリスも電車やバスがあるだろうから、車が無くても大丈夫だろうという認識だ。確かに電車は走っているし、バスも運行しているが、日本とは全く状況は異なっている。第一に、一時間あたりの運行本数はロンドンあたりの繁華街を除くととても少なく、日本の田舎と同じくらいの本数なのである。また、10分や20分遅れて到着することも日常茶飯事なのだ。
まだ僕が引率教員としてイギリスに来た時の話だが、夕方にジョージの道場へ行こうとして最寄りの駅からの始発電車に乗って発車を待っていた。それから15分くらい待っても発車せずに苛ついていると、
「申し訳ありませんが、この電車は運転手が来られないため発車できません」というアナウンスが流れ、下車させられた苦い経験がある。日本ではありえないことだ。そんなこともあるし、道場への行き来も車がないと厳しかったので、ある日ジョージと一緒に車購入のために自動車販売店に下見に行くことにした。近くにあったその店は中古車も扱っていて、僕はフォード製の少し小さ目な1600ccの白い乗用車に試乗してみることにした。営業マンも一緒に乗り込んできて、僕ににこやかに話しかけてきた。
「イギリスでのドライブは初めてですか?」
「はい、初めてです」
「それは素晴らしいですね!どうですか?感想は?」
「とってもいい気分です」
僕がイギリスに来てから1か月程経っていて、久しぶりの運転だったこともあり、その車の運転がとても快適に感じられた。僕は海外のイギリスという国で初めて車を運転できたことがとても嬉しかった。僕は試乗後、その車以外にオートマのプジョーの車にも試乗して、即決はしなかったがフォード製のものよりも気に入った。色はライトブルーだった。後日、僕はこのオートマのプジョーを購入することに決めた。それから2週間程して車の保険証書が届き、ようやく車の納車という運びとなった。日本では考えられないくらい手続きがゆっくりしている。この辺の感覚も日本とはかなり異なるところなのかもしれない。
そしてようやくプジョーも納車され、僕はこの車でジョージ道場主催の夏合宿に行くのが楽しみだった。ところが、この合宿で予想だにしなかった出来事が2件起こったのだった。
合宿場所はグリーンの芝生で覆われた公園のキャンプ場を借りて行われた。日本の合宿と違って稽古場所は芝生の上で行われ、宿泊場所はテントの中だった。僕は黒帯指導員ということもあり、テント設営には道場生達数人が手伝ってくれて、あっという間に僕専用の大きめのテントが設置されたのだった。昼間の稽古が終わると、夕食の準備にみんなで取り掛かった。食事はテント脇でのバーベキューだった。たくさんの牛肉と野菜が鉄板の上でジュージューと音を立てながら焼かれて焼肉特有のいい匂いを発していた。稽古の後ということもあって僕も空腹で、食べるのが待ち遠しいくらいだった。とてもいい匂いが漂う中、大人達はビールを片手に乾杯し合い、まさにパーティーと言ってもいいくらいの盛り上がった雰囲気だった。僕はジョージと彼のテント付近で雑談しながらビールを飲んでいたのだが、突然ジョージがいつもとは違う、ややこわばった表情で僕に話しかけてきた。
「ナオト、アドミンって知っているか?」
「知らないよ。何だいそれは?」
「管理料のことだよ。ナオトがこれからこの辺で道場を経営していくに
あたっての僕への手間賃みたいなものだよ。いろいろ相談に乗ってあ
げるのはもちろん、道場のチラシで興味を持った人達が電話をしてき
たら僕が受けて説明してあげるしね。新たな道場探しだって当然手伝
うからね」
「だからナオトはこれから毎月、道場使用料で支払っている金額の10
パーセントを僕に支払わなければならないんだよ」と、ジョージは真面目な顔で言った。今まで親友だと思っていたジョージの口から想像できないような言葉を聞いて、僕は一瞬唖然としてしまい言葉が出なかった。僕とジョージの友情を考えると、それはまさに青天の霹靂だった。当然、僕はその提案に対して違和感を覚えた。親友なのに、僕の稼いだ収入の10パーセントを取り上げるつもりなのかと、僕は少し苛立った。
「ジョージ、そういう僕へのヘルプって僕の感覚だと友情の範囲内だと思
うんだけど」
「ナオト、ビジネスはビジネスなんだよ。わかるかい、友情とはまた別の
ものなんだ」
「僕はちょっと理解できないな」と僕はやるせない表情で言った。
この話が出るまでは、普通に楽しいパーティー気分だったのだが、僕は一気にテンションが下がってしまった。周りの楽しそうな景色が全く別世界のように感じられた。僕はこれ以上ジョージと話をしていても埒が明かないと思ったので、
「ちょっと考えさせてくれよ」と言ってその場を離れ、キャンプファイアーの場所まで行った。各グループがそれぞれのキャンプファイアーを取り囲んで楽しそうに歓談しながらビールを飲み、焼いた牛肉をバンズに挟んでハンバーガーにして食べていた。あるグループは立ちながら、またあるグループはそのまま芝生に座って語り合いながら楽しそうに過ごしていた。僕は癒しを求めるかのように、座って歓談していたあるグループの所へ行き、
「ここ、座ってもいいかい?」と、そこのグループみんなに話しかけた。一人の道場生が、
「どうぞ座って下さい」と、笑顔で言ってくれた。そのグループには、ジョージの紹介で僕のことをいろいろ手伝ってくれていたグレイスいう女性が偶然座っていた。彼女は既婚者で、道場生である6歳のエイミーという娘がいた。グレイスの年齢は43歳で、今年44歳になると言っていた。身長は165くらいで、髪の毛はブロンドの綺麗な顔立ちをしている女性だった。
僕はこのグレイスのことを気に入っていた。ちょっときつそうな顔立ちだが性格がとても良く、優しくて、よく気づき、困っていたらすぐに相談に乗ってくれた。いずれにしてもそういう理由で、グレイスは僕にとってジョージの次に信頼できる人だった。
彼女は僕が入って来てちょっと驚いていたが、彼女の隣を空けてくれて僕はそこに座った。彼女はにこやかな笑みを浮かべ、僕のために新しい缶ビールをクーラーボックスから持ってきてくれた。周りの道場生達は一気に色々と僕に質問してきた。
「どうしたら強くなれるんですか?」
「日本の空手は神秘的ですね!」とか、
「氷を脛で割れるんですか?どうやったら割れるんですか?」などといった具合に僕は質問攻めにされた。みんなイギリス人だけど、日本の空手のことを真剣に考えているんだなぁ、と僕は感慨にふけり何だか嬉しくなった。もちろん、グレイスとの会話も弾んだ。娘のエイミーはすでにテントで寝ていた。時間はまだ9時前だった。僕はさっきまでの憂鬱な気分を払拭できたかのようにその時間が楽しくて仕方なかった。
そんな時こそ、あっという間に時が経ってしまうものなのだ。気が付いたら10時半を回っていた。10人くらいで焚火を囲って座って談笑していたが、そのうち、
「もう寝るね、おやすみ」と一人減り、二人減り、焚火の周りにいたメンバーは次々にいなくなっていった。11時頃には僕とグレイス、そして、わりと最近になって入門したばかりのジェイムスという名の18歳くらいの男の子だけになった。ジェイムスは陽気でユーモラスで、冗談ばかり言って僕らを楽しませてくれていた。そのジェイムスもさすがに眠くなったようで、
「 そろそろ寝ますね」といって自分のテントに帰ってしまった。僕はキャンプのような合宿経験は新鮮で、ちょっと興奮していたのかもしれないが、まだ眠気は襲ってこなかった。グレイスも一向に眠たそうなそぶりを見せなかった。僕は話の合うグレイスと話せるのは良かったのだが、さすがに二人きりという状態ではやや緊張してしまっていた。そのせいで流暢に言葉が出てこなかった。グレイスは最初から僕の右隣に座っていた。焚火の炎はこの時間になると、さすがに篝火のような状態になっていて、またそれが何ともロマンチックな雰囲気を演出していた。僕はもうそろそろ寝るか、グレイスともう少し話していようか、決断がつきかねる状態だった。グレイスはれっきとした既婚者だったが、グレイスのことは人としてとても好きだったし、女性としての魅力も兼ね備えていたから、なおさらもっと話していたい気がした。
そうこうするうちに、11時半くらいになってしまって、辺りを見回してもほとんど人がいなくなっていた。ジョージたちも寝てしまったようだった。篝火を前にして少しだけ気まずい雰囲気になりかけた時、
「炎って性的な意味があるのよね」とグレイスが言った。それを聞いて僕はドキッとした。女性が「性的な」という形容詞を使う時は本人にその気がある時だと聞いたことがあった。僕は、頭の中で瞬時にして適切な判断力が求められた。来週には奥さんである由美がようやく渡英してくる。グレイスには旦那さんと可愛い娘のエイミーがいる。一方で、ほとんど誰もいなくなった状態のキャンプ場で篝火となった焚火を囲んで魅力的なグレイスと2人きりでいる。彼女のテントには寝ているエイミーがいるが、僕のテントは僕専用の貸し切り状態であり、彼女の口からは誘いのような言葉。僕は当たり前かもしれないが、何とか自制心を保ち、
「もう寝ようか?」とグレイスに言った。グレイスは、
「そうだね、もう寝ましょう」とすんなり言って篝火を2人で消してお互い立ち上がり、それぞれのテントに帰っていった。その時のグレイスの表情は少し寂しそうに見えたが、それは僕の単なる思い上がりだったのだろうか。
翌日の朝、僕はグレイスを見つけ、
「おはよう!」と明るく話しかけた。
「おはようナオト!」とグレイスも微笑んで言ってくれた。いつもと同じ感じで僕は安心した。予想外の出来事もあったが、楽しく過ごせた合宿も無事に終わったのだった。
(続く~)