結局、僕は審査に立ち会ったにもかかわらず、全く収入を得ることが出来なかった。ジョージへの不信感が募る中、その翌日には妻の由美に帰国せざるを得ない状況を説明した。もちろん、申し訳ない気持ちをしっかりと伝えた上で。 その日の夜、僕は今後のことを一人で沈思黙考した。そして出た結論は、一旦帰国するが、もう1度だけビザを申請してみて、それでもだめなら潔く諦めるつもりだった。申請方法はいくつかのカテゴリーから申請することができた。例えば、スポーツインストラクター部門、会
そんな幸せを感じる日々を送れるようになって2週間くらい経ったある日、ホームオフィース(英国内務省)から郵便物が届いた。僕は期待を込めてすぐに開封した。中に入っていた便せんには結果が記入されていた。ビザ申請は却下されていた。有頂天から一気にどん底に突き落とされたような気分になった。それでもなんとかしなくてはと必死に考えた。しばらくすると意外とすぐに前向きな気持ちになれた。そういうところは成長したというか逞しくなっている自分を認識することができた。 僕は必死に考え
2つ目の道場は、マーゲートにある公民館の体育館を借りていたが、借りた当初はまだその周辺の雰囲気がわからず、公民館の体育館でもあり、人が集まりそうだと確信していた。一緒に契約に来てくれたジョージもそう思っていた。ところが、いくらデモンストレーションやプロモーションに時間をかけても道場生の数はなかなか伸びないでいた。主なメンバーはアーロンと息子のジェイク、それに奥さんのジェニー、それと、高校を中退したというという背の高い細身の青年であるライアンとその兄のルークくらいだ
イギリスではよく、「良い知らせと悪い知らせがある」という出だしで話を始める人がいる。セント・ローレンスカレッジで起こったことは、まさにそんな感じの出来事だった。 まず、良い知らせの方から言うと、セント・ローレンスカレッジからクリスマスパーティーに招待されたことだった。日本から来た、どこの誰ともわからないような男(友人に書いてもらったレファレンスはあったが)を学園の一員として認め、そのような一大イベントに招いてくれたことに、僕は非常に感謝した。学校行事なの
その後、クリスマスでも彼らからディナーのお誘いがあった。僕らは折角のお誘いだったので和服で訪問することにした。僕はセント・ローレンスカレッジにも着て行った紺色の和服で由美は黄色柄の浴衣だった。この時期に浴衣は寒いけど、由美の着物は浴衣しか持参しなかったので取り敢えずこれを着て行こうということになった。浴衣と言ってもきちんとした銀座の和服屋さんで春先に購入したもので、一見立派な和服に見えた。僕らが到着すると、アーロン、ジェニー、ジェイク、それにジェイクの妹で4歳
10月になり、毎月のアパート代、食費、電気代、ガス代、ガソリン代などの出費で、ある程度収入が増えてきたとはいえ、相変わらずなかなか厳しい生活を強いられていた。自転車操業とはこのことかと思ったくらいだった。なんとか食い繋いではいられたとはいえ、状況を少しでも改善する必要があった。出来ることと言えば、車を売却し、古くて安い車に変えることと、より安いアパートへの引っ越しだった。 この時乗っていた車はフランス製のプジョー205でライトブルーのオートマだった。中古で買ったが
8月に由美がイギリスにやって来た時、僕の道場経営は当初の予定に反してまだ軌道に乗っておらず、ジョージに支払うことになっていた管理料も重荷になっていた。僕は意を決してジョージにこの窮状を脱するためのいい案はないかと相談しに行こうと思っていた。何しろ、僕が道場を開設した7月下旬以降は、イギリスでは労働者に3週間の夏休みが通常与えられている。そのことも原因で最初はなかなか生徒が集まらず、ジョージに助けを求めるしかなかった。僕はある日の午前10時頃に1人でプジョーを走らせジョー
街頭ではビラを配るだけでなく、左右の回し蹴りや飛び後ろ回し蹴りなどのデモンストレーションも交えながら行ったが、慣れてきたとはいえ公園よりも緊張感は相当なものだった。 そんな日々を送っていたある日、僕と由美は車に乗って近隣の小学校を回っていると、立派な校舎を構える大きな学園キャンパスを発見した。取り敢えずここも配っておこうと思い、正門前に車を停めて外に出た。学園の名前は「セント・ローレンスカレッジ」だった。しかし、僕はその壮麗な雰囲気の学園風景に圧倒され、こんな学校
ある日、僕は道場宣伝のために空手着に着替え、宣伝のチラシを携え、マーゲ―ト近くのラムズゲートという街に行った。いつもと違って公園ではなく街中なのだ。さすがに勇気が要ったが、公園でのデモンストレーションの成功経験がこの街頭デモンストレーションを後押ししてくれていた。街頭の交差点辺りで僕はチラシを配り始めた。僕は空手着を着ているせいか多くの通行人に凝視されるが、ほとんどの人達はチラシをすんなり受け取ってくれた。すでにこの格好でのチラシ配りはだいぶ慣れていた。チラシを配りな
マーゲート道場は新規の道場で、由美もオレンジ帯を締めていたせいもあって新規入門者は由美に気を遣っていたが、サンドイッチ道場で由美を皆に紹介した時は、すでにいろいろな道場生といつも見学に来てくれる保護者たちがいた。夏休みが終わってから、徐々に活気を取り戻し、新規入門者も少しではあるが増えつつあった。そんな中で、自己紹介後には特に小学生や、子供たちの保護者達から熱い視線を向けられて、芸能人のように取り囲まれ質問攻めになっていた。 「How old are you?(歳は
翌日の朝、僕と由美は早めに朝食を済ませ、青のプジョーに乗って、近所の公園に10分くらいで到着した。その日はイギリスの天気にしては晴天で、まさに「ラブリ―デイ」だった。青い芝生が広がっていて、見た目だけで心地良く、空気も青芝の新鮮な匂いがした。ゆるやかな風も心地よい。まだ9時を少し回ったばかりくらいの時間だったので人影は疎らだった。キャップを被った若い母親がベビーカーの赤ん坊をあやしながら歩いているのと、身なりのきちんとした老人紳士がベンチに座って読書をして
イギリスに来て3か月半たち、本来なら新婚生活を共に満喫していたはずの妻である由美が、ようやく8月の中盤になって渡英できるようになった。由美は食品会社のOLで、7月いっぱいで円満退職することになっていた。僕はその日が待ち遠しかった。そして、ようやくその日がやって来た。 由美は14時にヒースロー空港に到着予定だったので、僕は12時半に余裕を持って家を出て、青色のプジョー205でヒースロー空港へ向かった。1時間15分くらいで空港に到着した。僕は駐車場に車を入れようと
2週間後、マーゲートの新道場へ僕は1人で行き、早めに空手着に着替え、道場生が来るのを心待ちにしていた。オープンに先立って、道場オープンのチラシも僕とジョージで分け合い、それぞれが分担して近所の小学校に行ってチラシを配ってくれるよう受付の事務員にお願いしていた。ところが、サンドイッチ道場と違って、開始10分間になっても誰も現れなかった。確かに、夏休み期間ではあったものの夏休みもようやく終わりに近づき、子供たちも地元に戻って来ているはずなのであったが。 開始時間5
それから1週間後の道場指導の日、僕は朝から期待に胸を膨らませて、夕方になると早めに道場に向かった。到着後すぐに道着に着替え、受付用のテーブルを引っ張り出した、準備を念入りに済ませ道場生達を待っていた。少しすると、先週来てくれた生徒たちが数人やって来た。小学生くらいの男女が数人と、中学生くらいの女の子、それに、40歳くらいの女性である。彼女は近くにある大手製薬会社の科学者だと言っていた。豊満で、笑顔の素敵な女性だった。フィンランド出身で名前はアイラといった。そろそろ始ま
いよいよ僕自身の道場がオープンする日がやって来た。その前日は、イギリスで自分自身の空手道場がオープンするんだと思うと、興奮してなかなか寝付けなかった。まるで小学生のようだった。当日は朝早くから目が覚め、夕方5時くらいまでなかなか落ち着かなかった。5時半を少し回った頃になって、空手着やキックミットなどを持ち、グレイスの家まで車を走らせた。グレイスと一緒にサンドイッチの新道場に向かうことになっていた。ジョージが気を利かせて、グレイスに僕を手伝うよう頼んでくれていたの
それから数日経って、ジョージのハイス道場に行くと、グレイスが娘のエイミーと一緒に入り口の受付の所に座って、道場生の出席をチェックしていた。グレイスは僕に気づき、 「ハロー、ナオト!」と、彼女から挨拶してくれたので、僕も、 「ハロー、グレイス、元気かい?」と返すと、 「元気よ!」と笑顔で答えてくれた。僕はいつもと変わらないグレイスを 見て嬉しかった。それからジョージを見つけて、 「元気かい?」と聞くと、 「ちょっと疲れがたまっている