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立派な人はふつうの人

忘れられたひとは誰か。清廉な静かな徳のある家庭的な人間だ。

社会学者ウィリアム・サムナー「忘れられたひと」


立派な人というのはどういう人なのだろうか。

自分に問いかけてみよう。

立派になりたくないと言えば嘘になる。

私も立派な人でいたいと思う。

だけど、立派とは人から言われる言葉であって、自分で望むものではないんでしょうね。

現代社会の立派な人は、社会的な承認は社会的な成功によって成り立っていますね。

仕事で成功すれば不特定多数の人に尊敬されたり、チヤホヤしてもらえる。

だけど、その承認されているのは自分の業績であって、あなた自身ではないところにひとつの罠が隠されています。

昔から「公人」と「私人」という分け方がありますね。

仕事の中での自分と仕事外での自分。

今では仕事とプライベートというのでしょうか。

今の時代、多くの人々に「立派な人」とされる人は「公人」として成功している人がほとんではないでしょうか。


「私人」として立派であることは話題になりません。

善良であることの価値は見えずらく、お金になりません。

しかしながら、「私人」として立派な人のほうが私は好感が持てます。

仕事はできるが家族関係はぼろぼろという人はたくさんいますね。

なぜか。

それは、人は自分と距離が近い人との方がいい関係を結ぶのが難しいからでしょう。

「私人」として善良であることには強い意志が必要になる。

家族や恋人、友人に甘えて雑な対応をしてしまうのが人間の性ですが、それを一歩踏みとどめる意志に美しさがあります。

人に感謝をしてゆとりを持つ。

視野を広く、呼吸を深く、物事を遠くまで見つめる。

こういう意味での「立派な人」というのは、目につかないところでひっそりと生きているのではないでしょうか。

暮しは分が大事です
気楽が何より薬です
そねむ心は自分より
以外のものは傷つけぬ  

詩人 堀口大學「ことばの流星群」


ふつうの人として、ふつうに生きることを詩人の堀口は言います。

こういう風にわざわざ歌われてるのは、ふつうであることは、とっても難しいことを暗に示してますよね。

自分にとって自分が心地いい存在であり、他人にとっても心地よい存在であること。

過去を見つめるのと同時に未来を見つめ、現在に生きること。


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