映画「パターソン」-過ぎゆく日常の揺らぎを見つめて-
ジム・ジャームッシュ監督「パターソン」を観て
詩人のバス運転手、パターソンの1週間を描いた作品。
同じ時間に起きて、同じ朝食を食べて、
同じ仕事で同じルートを運転し、恋人とご飯を食べる。犬の散歩、行きつけのBarでお馴染みの顔と会話を交わす。
寝る前に地下室でその日にあった印象的な出来事を詩に書き連ねる。
そんな何も事件が起きない映画だけど、その日常を詩人の目は色鮮やかに捉えていく。
パターソンは寡黙でほとんど自己主張もしない人だけど、その内面にはどんな小さな出来事であっても、それが自分に引き起こす感覚を見逃さずに、その感覚を詩に書き写す詩人。
その詩人の内的世界が、観る人にも伝わって、妙に暖かい、安心した雰囲気になれるところが「パターソン」の魅力だと思う。
そんなことはともかく、
パターソンの画が好きすぎる。ちょっと見てもらいたい。
さて、
この映画の批評を読んでいると、「日常の反復のなかに幸せを見出す」ことがテーマにぶつかる。
たしかにその通り。
何気ない日常に幸せがある。
まったくその通り。
だけど、ここであえて言いたい。
そういう幸せを感じるためには、もっと深い意味で「詩人として生きる」ことが必要になるんじゃないか?
現代アメリカ社会でバス運転手のパターソンは、はっきり言って底辺の仕事だろう(失礼だけど)。
BARに通ってもビールは一杯しか飲めないくらいの生活環境だと思う。それでいて、スマートホンのない生活を送っている。こんな奴がいるか?というのが素直な感想。
たぶん、パターソンは「あえて」そういう生活をしてる。現代社会に取り残された以上に、現代社会への嫌悪もあるんだろう。
撤退した生き方。
それでいて、作中の登場人物は世俗にまみれた生活をしていて、その登場人物たちをパターソンは「見守って」いるだけ。そしてそれを詩に書く生活をする。
自分は世俗的な出来事を、一歩引いて観察し、そこで生じた想いだけを自分の生活に取り込む。
そういう人物が本当に幸せかと言われれば、少し疑問は残ると思う。
人や社会と身体全体でぶつからない生き方を良しとするのは、その人の価値観によるものだけれど、普通の人(自分のような)にはどこか味気ない感覚が生まれるとも思う。
パターソンは現代社会のアンチテーゼとして、
ひとつの「撤退のあり方」の象徴だと思う。
色々なものを諦めた末の、苦渋の選択なんじゃないかな。
ただ理想的というより、現実的な制約の中で、パターソンがんばって選び取った人生のあり方、そういう葛藤があるから美しい日常があるんじゃないか、と映画を観て思った。
詩人パターソンについて
ちなみに「パターソンPaterson」という映画の題は、アメリカの詩人パターソンから取られてる。本当にいた詩人の名前なんだよね。誰やねんってことでちょっと紹介する。
詩人っていうと世捨て人みたいなイメージがあるけど、パターソン(映画の主人公ではなくて本物のね)は物凄くバランスの取れた詩人だったんだ。
小児科の先生で地域の医療に貢献して、
趣味として夜中に詩作に励んだ。
彼は多忙な医師生活の中で思いついた詩を処方箋の裏紙に書き溜めていた。
だから、彼の詩は短い処方箋サイズのものがたくさんある。
ちょっと詩も載せてみる。
事物を離れて観念はない、という言葉がすごく印象に残る。映画「パターソン」にもそういう要素があった。
パターソンは具体的な出来事からしか詩を作らなかった。詩人っていうのは些細な出来事から最大のものを導き出す人のことを言うんだろうな。
日常を神秘に、神秘を日常に。
こういう人が目の前にいたら、目立たないけれど、本当に尊敬できる生き方だと思う。
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