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6 山中にて 〜爆撃に怯える〜

 山の陣地へ入って間もない頃、丘陵地帯の森と草原の入り混ざった所を部下を連れて歩いていた時の事である。ザーと云う音がして来たので空を見上げると十機程の爆撃機の編隊から爆弾が何十発となく落ちて来るのが見えた。しかもその爆弾が全部自分の方へ向かって落下する様に思われた。今考えると不思議だがその時はどちらかへ逃げようと云う考えが全く浮かばず、とっさにその場に伏せてしまった。私はザーと云う音が刻々と近づいて来る間、唯「もう駄目だ、もう駄目だ」と心の中で叫んでいた。やがてすぐ近くにドドドドッと爆発が始まりもうもうと土煙が上がった。自分は助かったのだが、死んだ筈が生きていたような、瞬間変な気持ちだった。

 ところがである。この爆弾が落下して来る十何秒かの間に私が伏せて居るところへ部下が皆寄ってきて、廻りから体を押しつけ、もがき、上にまでかぶさって来て私は押しつぶされそうだった。これに関連して次の様な経験をした。その頃日中は間断なく砲撃が続き、午前と午後には日課の様に爆撃と機銃掃射が繰り返されていた。或る時、近くに砲弾が落下したのでとび込んだ壕の中に、非常に階級の上の人が居た事があった。その時『此処なら大丈夫だ』といった妙な安心感を味わった。考えてみれば砲弾は階級とは関係なく落ちて来るのに馬鹿な事だ。だがその時、先の爆撃中に部下の見せた行動の意味が判った。人間はこんな風に、階級とか肩書に幻惑される弱さがある様だ。これは我々の日常生活においても見る事が出来るのではないか。その逆の場合も含めて。

 或る小高い山に瀬戸口部隊が陣地を構築していた。私がそこへ立ち寄った所、最後の無線連絡を試みている所だと聞いたので、何かニュースでもあるかと思って待っていた。すると間もなく爆音が聞こえて来て、キーと云う急降下音に続いてドカーンと爆発が起った。とっさに近くの横穴に逃げ込んだのだが、爆音はみるみる内に増えて壕の中から見えないが、まるで空一面が米軍機で蔽われている感じだった。それが次々急降下しては爆撃をくり返して行く。急降下の音から察して今度は自分の壕がやられるなと感じた事が何回かあったが幸い僅かに外れて、その度に天井から砂や小石がバラバラと落ちて来た。次々と新手がやって来るのか爆撃は半時間位も続いただろう。敵機が去って、皆がぞろぞろ出て来た時、此処もやられた、あっちもやられたと云う情報が伝わって来たが、部隊長の居た壕は直撃弾を受けて隊長は戦死していた。こんな時、生死は全く運不運の問題だ。それにしても日本軍の電波をキャッチして、直ちにそこへ攻撃を加える米軍の応答の早さには驚くばかりだった。

 月が煌々と照っていたから二月の中頃だろう。私の隊は毎晩、野砲を道のない山中へ運び込むのを手伝っていた。ところが据え付けも終わり、2、3回も射撃をしただろうか。この時も米軍の応答は実に早かった。その度に直ちに辺り一面が何百倍もの砲弾に見舞われるのだ。せっかくの砲撃をあきらめて砲を破壊してしまった。しかもその中の一門はあまり茂みの奥に据えていたので発射した砲弾が前の木の枝に当たって爆発し、自分の撃った砲弾で射手が戦死するという珍事までついていた。

 こんな出来事を書き並べていてはキリが無いから話を先へ進めよう。我が河島兵団は大体1月に山へ入ったのだが、その時3ヶ月分の食糧を持ち込む様に指示されていた。だから4月になると食糧も底が見えて来た。その上雨季が始まり、軟弱な壕があちこちで崩れ出した。連日激しい砲爆撃を受け、空腹に耐えながら戦う意思も能力もなくなっていた。負傷兵や病人は死ぬにまかされ、一万数千名の河島兵団は放っておいても間もなく自滅する様に思われた。だが米軍はこの弱り目をついて一斉に地上攻撃を仕掛けて来たのである。これに対し兵団本部から「現在の陣地を死守せよ」と云う命令が出された。それでも私の居た谷を毎日何人かの傷ついた兵隊が或る者はふらつきながら当てもなく後方へ通り過ぎて行った。その中の何人かは私の谷で動けなくなって死んだ。だが誰一人助けを求める者はなかった。何もして貰えない事が十分判っていたのだろう。或る日ボロをまとった兵隊が倒れていたが、彼が寝返りをうったのを見て部下の一人が「スパイかも知れぬから殺しておこう」と云い出したので私は唖然とした。それ程スパイに対する教育が行き過ぎていた様だ。

 やがて周りの山腹に米軍の部隊が現れて来た。毎日夕方になると胴体の太い輸送機が超低空で目の前の米軍に食糧や弾薬の梱包をパラシュートをつけて落として行った。これを空腹をかかえて、どんなに恨めしく眺めた事だろう。兵団本部へは毎日連絡を出していたのだが、或る日「今夜前面の米軍に夜襲を決行せよ」と云う命令をもらって来た。軍隊で命令は絶対的だったので、夕方私は、数名の部下を連れて偵察に行った。多数の米兵がガヤガヤ喋っていたが、その中の一人が私達に気付いたらしく一段大きい声で何か叫ぶと数人が自動小銃を手にして一斉に射って来た。サッと茂みに身を伏せたのだが、部下の一人の首を銃弾がかすめた。血が流れているし早速引き上げて手当をしたが、それが元で彼は死んだ。とても近寄る事が出来そうにないから夜襲は止めにし、本部への連絡も、途中射たれる事があるし、これを機会にそれも止めた。そして私の小隊は谷にひそんで、今日米軍が攻めて来るだろうか、明日は来るだろうか、と唯漫然と暮らしていた。こんな日が一週間程続いただろうか。

 或る日私の脳裏に突然『よし!逃げるんだ‼︎』という考えが閃いた。夕方を待ってまだ50名程居た部下を集合させ、戦況やこれから我々の行動について説明を行なった。そして夜になると直ちに行動を起こした。それまでは大体命令に従って動いて来たのだが、これからは自分の責任で行動するのだと思うと、身体中にジーと緊張がみなぎるのを感じた。こっそりと山奥へ逃げ込むつもりで本部の所をわざわざ迂回して本通りへ出たのだが、驚いた事にそこでは列を乱した敗残兵の群れが雑踏の様に奥へ奥へと動いていた。我々も含めたこの群衆はこのあと人跡未踏の山中を当てもなくさ迷う事になるのだが、飢えと病にたおれてみるみる内に生存者は減っていった。自決する者も相次いだ。又日本軍同士の悲惨な争いもあった。この無法地帯においては僅かの争いでも一方の死によって大概決着がつけられた。こうして一ヶ月程の間に殆んどの者が死んでしまった。昭和20年の5月から6月にかけての出来事である。 

(第6号 昭和五十三年・1978年 三月二日発行)

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