独我論的な思想と、自殺に関して。

俺は幼少期から独我論的な思想を持っていた。
他者は存在せず、この世に存在するのは俺だけ。
究極の自己中みたいな考え方。
でもだからといって、同級生をいじめたり、騙したり、好き勝手に振る舞っていた訳ではない。
それはそう感じている訳ではなくて、ただそう考えられるから考えるといった程度のもので、つまり行動に影響する程の強い思想ではなかったから。
他人と自分が、同程度の構造をした脳を共有しているのは明らかだった。同じ言語を話し、悲しみの表情や怒りの言動、利己的な行動や、笑いの感覚まで、多少なりとも個人差はあれど、同じ人間であれば差異は少なく。そういった他者の反応を繰り返し見る事で、自分は人間達の群れの一匹であると理解する。
けれど、前世で自分以外の一匹であった訳でも、来世で自分以外の一匹になると分かっている訳でもない。
この世界に生まれて、人間として生きるのは初めてなのに、同じ脳の構造をした、いわばプログラミングでしかない他者に意識があると確信する。
それは仕方がない。なぜなら他者と自分は同じ形をして、同じ構造をして、同じ生理現象によって同じ感情を持つからだ。つまり他者と自分は同じプログラミングで動く、ほぼ完全に同一規格の機械なのだから。
しかし自分と他者を完全に区別するただ一つの、それも決定的な違いがある。視点だ。
人間は自分の視点しか持つ事は出来ない。それは現在生命として人間が捉えている全ての個体に共通で、自分の視点、自分の痛み、自分の快楽、自分の脳内ネットワークしか体験する事が出来ない。勿論自分の脳内に他者の視点を仮想的に作り出す事は可能だ。苦痛の表情を浮かべる他者を見ると、同じように痛みを感じたと脳内で反応する人間は多い。
他者と自分を隔てる壁は、本質的には、他の全ての事物との壁と同等に強固な物だ。
しかし人間という単位に視点を持つ事自体も不思議な事態で、体内に住む沢山の細菌や微生物で構成されたその全ての肉体を自分として認識している。つまり他者もいくらか勝手に包含してしまって、代表者として自分を名乗っている。
細菌に視点を持たずに、俺が人間に視点を持った理由が、脳の構造によるものだとする。それはおそらくとても人間本位の考え方ではないだろうか。人間的な情動と人間的な見方の尺度で、人間的な視点について語れば、勿論この視点は人間に特有だろう。しかし人間特有の視点なんて数多の生命からすれば、何百万分の1だ。大腸菌の視点なんて私達には想像出来ない。
逆転の発想を持ってみよう。もし私達が既に大腸菌単位の生命体なのだとしたら、人間様は何にあたるのだろうか。地球?太陽系?膨張する宇宙そのもの?
私たちが神様と呼ぶ何か?
おそらく生理現象という関わりにおいては、地球が一番相応しいのだろう。では、大腸菌にとっての宇宙は?勿論私達には認識不可能な何かということになるのだろう。
スケールだけ大きくなってしまったが、視点の問題はもっとすぐ側に、何よりもすぐ側に存在する。
俺はどうして俺なのだろうか。
一度は考えた事はあるだろうか?
独我論は論駁出来ると言う人がいるが、俺にしてみれば、論駁出来るものはそもそも独我論とは言わない。
論駁出来ないもの、解を出せないもの(少なくとも人間レベルでは確実に不可能だと確信している)を独我論と考えている。
私が貴方として視点を持っている訳ではなく、私として視点を持つまさに今、そして想像し得る限り私が存在した過去全てから私が死ぬまでの未来全てまで続くであろうこの事態を普遍と捉えるか異常事態と捉えるかの問題。
私の父親が射精した何億もの精子の段階で、そのどれか一つに私の視点の席はあったのだろうか。もっと前に精子を構成する分子の段階で私の指定席は決められていたのか。いやどの精子が卵子に届いたとしても、そこは私の席として決定していたのか。では似た遺伝子によって作られた兄弟ではなく、なぜ私に私は生まれてきたのか。
私が私に視点を持たなかったとしても、私という人間個体は生まれただろうし、同じ情動を司る脳を持っていだのだから、視点の有無に関わらず今この瞬間にこの文章を書いていただろう。しかし私は今この文章を書く指を見ている。紛れもなく視点があるのだ。この文章を見る貴方ではなく私として。貴方が想像する私ではなく、私が感じる私として。
どうして私に生まれたのか。これは当たり前のようでいて、とても緊急事態なんだと思う。たとえ視点を持ち得る脳を人間の脳に限定したとしても、今まで存在していた人間だけでも約1080億人といわれている。勿論これからも人間は産まれてくるだろうが、ざっと1000億分の1で私は私に視点を持ち得た。そういう事態なんだ。この規模と今この瞬間の事態のスケールのギャップは、安易に転生といった考え方を生み出したくなる。しかしそれでは事態は解決しない。例え貴方に前世があり、貴方の隣人か貴方の恋人か、貴方が誕生する1秒前に死んだ誰かの生まれ変わりだとしても、今存在して視点を持つのは貴方だ(いや私なのだけれど)
どうして前世のその人の視点で今がある訳ではなく、今は貴方としてしか視点が無いのか。どうして今は1900年の誰かとして今を認識している訳ではなくて、2023年を今と認識して存在するのか。死ぬ時に記憶が消えるのだから、今ある視点のみが存在する視点だ。
なので、転生しているという考え方では、先のギャップは何も解消する事は出来ない。
それに人間のみに限定して、1000億分の1だ。
まぁしかし、どれだけ数が多くなろうが、無限に近い数の中であっても、ランダムに一つを選ぶことは可能だ。例え事態に対してギャップを感じてしまったとしても、可能は可能だ。

上記した全てのことを、初めて意識した人間もいれば、よく考える人間もいるだろうが、俺も含めて、多くの人間はこの視点を持つという事態を忘れがちだ。
他者はプログラミングという意味においては、ゲーム中のNPCと差異はそこまで無い筈なのに、私たちは他人をNPCと思うことは出来ない。他人も私を同じ視点を持つ人間だと意識してしまう。その原因の全ては遺伝子にあるのだろう。毎日挨拶をして、言葉を交わして、同じ感情や思考や論理を共有して、私は貴方の存在を認めていますよ、貴方も私の存在を認めていますよね?と確認をして、他者と私を同一化する様に出来ている。大小に差はあれ同種の中で社会を築くのが生物なのだろう。確認方法自体はとても容易い。脳のレベルは同種で同じなのだから、むしろレベルが異なる対象同士では、挨拶は出来ないように作られている。
もし突然変異によって、何億桁の因数分解が1秒で解ける人間が現れたら、その人はいくら挨拶をしようと、いくら社会生活に身を投じようと、私が何故私であるのか?という疑問を忘れる事はないだろう。しかしたとえどれほど脳が巨大で頭がよくても、私の勘によれば、現実世界に生命を持ち思考する者の視点からでは、どうしたところで解を見つける事は出来ないのだろう。
挨拶以外でも、何かを書いたり、何かを伝えたり、殆ど全ての行動は、おそらく他者にも自分と同じように視点があるという前提を認めたうえで行なっている事だ。

例外があるとすれば、自殺が一番近しいものだろう。
他者を認めないとまでは行かないが、積極的に否定しようとする。そうしないと実行出来ないから。頭の中で、理性で持って、私が死んで視点が消えればこの宇宙が消えるとそう考える。死んだ私の遺体を見て泣き崩れる親を想像してしまうのも私の脳だが、理性でそれをかき消す。

ウィトゲンシュタインという哲学者は、人は死を体験する事がないと書いた。同じように誰も誕生を体験していない。脳が形作られ、目を見開いた時に母親の胎盤を見たと記憶している人間は居ないだろう。それはいつも、幼稚園の鉄棒で遊んでいる時や、好きな子と初めてお話した時、夏に初めてスイカを食べた時かもしれないが、貴方は気付けばもうそこに居た。この世界を観察する存在として。子供達というカオスの中から、他者に同じ名前を呼ばれているのがどうやら自分なのだと、個体として巣立ったように、人間はそれと意識しないでカオスの中に帰す(多分)。
世界を主体として考えれば、私の誕生と消滅は存在する。しかし世界を主体として考えることが出来るのは、世界ではなくいつも貴方だ。貴方が世界という仮想の主体を用意してそこに貴方の存在を置いているに過ぎない。この世界に私の視点が無ければ、もうそこには世界は無い。この宇宙が生命を誕生させなければ、つまり宇宙を観測者する者が居なければ、宇宙は存在していないのと同意義だ。こんな事を言うとそんな訳ないだろと言われるかもしれないし、けれども、貴方はこの宇宙以外の宇宙の存在を認めますか?無理でしょう?貴方が見ていないから、知っていないから。
存在の為に観測者が居る。存在していないと観測者は作れないのに。原因と結果が逆転したおかしな事態です。だからいつも、いつのまにか存在しているんです。もうそうなってしまっているから仕方ない、どうしようもない。
貴方の始まりも終わりもなく、全てはただ今存在している貴方の視点のみ。終わりもなければ始まりもない。勝手に止まることはない。止めようとする事はできるけれど。

俺が自殺をしようとした時に、他者から止められた。勿論その行動は理解出来る。だが、彼らの言葉が何一つ私に響かなったのは、私は私の視点しか持たず、彼らの視点を持たないというこの事態が原因だった。
私が今存在しているという事態を一般化して、他者と共有するにはあまりにも拗らせすぎていた高校生の私は、死んだら視点が終わるんだから貴方たちが悲しもうが関係ないじゃないか?とそれまで育ててくれた家族に言ってしまう。今考えると頭がおかしいのだけれど。それでも本当にそう思い、それを論駁してくれる何か、誰かを本気で探していたからこそ、そんなことを言ってのけた。

世界をとても広く美しいものに感じたあの時に、俺は死んで美しくなりたかった。
一般化を受け入れられなかった俺は、10代で死ぬことがイレギュラーだとは思わなかった。存在している事自体がこんなにイレギュラーなんだからと。こんなに世界の深淵まで見えたんだから、死んでもいいと思った。その視界はもうこれ以上生きても霧がかっていくように感じたからだ。生きた方が幸せなのだろうと思った。というか、大半の自殺は幸不幸の打算で考えたならば生きていた方が幸せだろうと思っている。それでも俺の美意識は、これ以上ない死ぬタイミングだと思った。
では何故今生きているのかというと、ただ一つ、怖気付いた。という、ただそれだけ。
理性で感情を排し行動を変えられる人はとても強いと思う、尊敬する。俺は弱く、遺伝子に降参した。

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