#03 人があっての自然、建築があっての自然。これをひっくり返したい
前回、伝統工法のお家に再会し、
現代の家づくりに疑問を持った。
そして、
ー私も自然と循環するような建築がしたい!
という想いに出会うことができた。
それと同時に心のどこかで、
自然にとって建築という行為は、結局マイナスにしかならないんじゃないか、と思ってしまうようになった。
(↑ 今回の記事の流れはこんな感じ。盛りだくさんです!)
01. 土中環境、という言葉
そんな時、私の建築観に希望を与えてくれる言葉と出会った。
きっかけは、思いがけずインスタでだった。
現場の昼休みに、まるで現実逃避をするかのように自分の理想の建築を漁っていたときのこと。
ふと、岐阜のとある設計事務所の記事が目に止まった。石場建てのお家を設計しているらしい。
石場建てとは、建物の柱を直接石の上に立てる、日本の伝統的な建築方法のこと。
基礎にコンクリートを使わず、石の上に木材を乗せることで、地震の揺れを石が吸収し、建物全体に伝わりにくくする効果がある。
また、床下の通気性が良いため、木材が湿気で傷みにくい。
ーあれ、今の時代石場建てってできるのかな?
気になってHPへ飛んだ。
木組、土壁、石場建て、真壁、、、
最近やっと目に馴染むようになった言葉たちが並び、そして、
"土中環境" についての記事があった。
聞き慣れない言葉だなと思いながら、
同時に強く惹かれた。
中身を少し、引用させていただく。
全てが目から鱗だった。
自然と建築に対して同じ気持ちの方がいて、もうすでに解決策を実践されているなんて。
同時に、もっと学びたい、と強く思った。
土中環境については、自分の言葉でまとめようと思ったけど、自然界の全てが絡んでくるので、簡単には言語化できないほど奥が深かった。
(高田広臣さんの「土中環境」を完全に読み切ったら、新しく記事でまとめます!)
土中環境を改善できる石場建て。
多種多様な植物や生物が帰ってくる、そんな建築と自然の境目。
そんな建築の在り方ってほんとうに素敵だなあ、心の底からそう思った。
まさに、"自然のためにある建築" だった。
そうか、
人があっての自然、建築があっての自然
これをひっくり返したい。
そう思うようになった。
02. キングとの再会
季節は巡り、山に行かないか?と誘われた。
誘ってくれた友達は、私の工業高校時代の同級生。
この子、破茶滅茶に面白いのだ。
高校時代はラグビーにあけくれていて、私たちの接点といえば、"走ること"くらい。
学科も違ったけど、あっけらかんとしていて気持ちがよく人間味のある彼女と、すごく気が合った。
大学に入ってからトライアスロンを始めたようで、1年目で地方の大会で準優勝をとってしまう。ポテンシャルが半端ない鉄人なのだ。
敬意を込めて、ここでは愛称のキングと呼ばせていただく。
そんなキングとは、卒業してしばらく会えていなかったのだが、大学3年生になってから突然、
"木っておもしろい〜!!!!!🌳"
と言い出したのだ!
私が自然と循環する建築について考えていたのとちょうど同じ時期に、キングも同じように木と、林業と向き合っていた。
きっかけは、
大学の授業のチェンソー実習で山に入り、初めて木の伐採をしたこと。
しかも、色々重なり数回授業を蹴ったあとの補習だったため、先生とほぼマンツーマンで教えてもらったらしい。めちゃくちゃキングだ笑
私もそれを聞きつけ、山の中の設計事務所で学んだ自然と循環の話を伝えたくてメッセージでやりとりしていた。
すると、
"ぜひ畑は違っても学びたい、実習に行きたい"
と言い出したので、ご縁を繋げさせてもらった。
そして去年の夏、
山の中で数年ぶりの再会を果たす。
キングの実習に合わせて、私も手伝いにいかせていただいた。
奴は登場からおかしかった。
愛媛の松山市内から、50キロほど猛暑の中をチャリを漕いできた。しかも山道、登りだ。
さすがにフラフラで脱水症状気味だったらしい。途中から圏外に入ったようで連絡が途絶えて焦った。
約束の時間を2時間ほどすぎて、姿を現した時には感動まであった…。
ーまさかこんなとこで再会するとはね!
ー人生どこで交わるか分からんね、面白いね〜
と言いながら、数日間一緒に古民家の解体や、不耕起の田んぼの草取りなどをさせてもらった。
彼女は、よく寝る、よく食べる、よく動く。
見ていて面白いくらいだった。
そして、
誰よりも自然に寄り添ってよく考える。
ー蚊って、叩かなきゃ刺されないんだよ
この一言には、私も衝撃を受けた笑
キングはどこまでもピュアな目で自然を見てるんだなあ、そう感じた瞬間だった。
03. 山の子山岡、山に還る
話は戻るが、
そんな彼女に、山に行かない?と誘われた。
K先生という先生が、キングを木のおもしろさの沼に導いた師匠的な存在らしい。
自然と循環について大学生たちを山に連れて行き、授業の一環で、実際に山の木の間伐をしたり、植物観察をしたりしている。
キングは、必要な単位を取り切ってしまっていて、その先生の補助的なことをしていた。
一度会ってみてほしいと言われていたので、
11月、大学生に混じって山でのチェンソー実習に参加させていただいた。
結論から言うと、
山、とてもよかった!!!!!
山生まれの野生児なので帰巣本能が働いたのかもしれない、、。
初めて触るチェンソーで、K先生の指示を受けながら慎重に木を切り倒させてもらった。
少しずつ年輪を刻んできた木が、私の手でゆっくりと切り倒れていく。
それはすごく、命と向き合っている実感があった。
上の方で枝が引っかかってしまい、みんなでロープをかけて引っ張って大きなカブ状態になったけど^^;
倒れた木の枝を落とし、玉切り(料理でいう輪切り🥒)にして、時間があれば薪にして積んでおく。少しずつ。少しずつ。
ここでの考察を少し。
"自然のためにある建築"という、
新しくなった私のテーマと、絶対切り離して考えることはできない(と思ってる)
"森の健康をどう守るのか" という課題。
日本では戦後、復旧のために育ちが早い針葉樹を植えることが推奨されたらしい。
その時の名残で今でも山を見ると人工林がたくさん残っている。
ただそのほとんどが、担い手不足で放置されてる。
禿山や放置された人工林は、
鬱蒼と暗くて足元に陽が入らず植物も生えないし、葉が落ちないから土が硬くなってしまう。
そうなってしまうと森には水が浸透せず、大雨で土砂災害や地滑りが起こりやすくなる。
大規模伐採ではなく、時間がかかるけど
少しずつ人の手で間伐して、足元や周囲に陽を入れ生態系ごと守る。
そんな林業を少し、見させてもらった。
機械を使う大規模な"全代"で生態系が死んでしまうなら、人の都合で効率だけを求められ他の生き物の棲家が奪われるくらいなら、
キングの言うように"自然を守る林業"を、
建築を通して応援したい。
きっと、効率や人の都合と切り離された世界に、それはある。
傾斜でチェンソー持って、ビクビクしながら刻んで、、毎日走ってる私でも全身筋肉痛になった。良い経験だったなあ。
一通り作業が終わった後に、みんなで大きなイチョウの木を見にいった。その道中に、鬱蒼として真っ暗な人工林があった。
規則正しく並べて植えられた森、間伐もまともにされていないようで足元には光が入っておらず、いわゆる "緑の砂漠" 状態。
ー教科書に出てきそうな悪い森林の例だなぁ
ーまるで日本教育ですね、、(山岡)
こんなにもさっきまでいた森と違うものなのかと驚いた。
これもキングの言葉だけど、
人の都合で人工林を作ってしまったなら、責任を持って改善していかなきゃいけない。
放置された森や木は苦しんでいる。
私に建築を通してできることは何か。
また一つ、考えの引き出しを増やしてもらった気がする。
キングは木の声が聞こえるって言ってた。
スピリチュアルとかそういう次元じゃなくて
自然と人間を同じ一つのものと唱える=全体論として、当たり前に
世界を見てるんじゃないかな。
04. いい木って?
印象的だったエピソードがある。
これは、半年くらい前の私の文章。
だと思ってたんだけどね、、
前半に、何か違和感を感じるようになった。
目の詰まった木。
厳しい環境にいるから、そうなるのか。
陽の光を存分に浴びて年輪と年輪の隙間が大きい木より、建築材的には目の詰まった木の方が強度が高いし狂いが少ないから、
いいとされる。
ーいい木って、何?ー
キングとK先生はこう言った。
"いい木か悪い木かなんて、
人の都合でしかない"
父はこう言った。
それは植物にとって、健康な状態なの?
木の立場でしかいいか悪いかは分からないけど、健康かどうかって、すごく分かりやすいと思うけどな。
その時は理解できなくて、
言われたあと少し喧嘩した。笑
また、ある方はこう言った。
"目が詰まっていると言うことは、
木が存分に成長していないということ
この握り拳1個分くらいの幹で樹齢100年の木もいるんだよ
木が成長しなくていい、と言うことは
もしかするとその自然の中では既にバランスが取れているのかもしれないよね"
その言葉たちでどんどん視界がひらけていく
木にとっても、人にとっても
いい悪いという目線より全体で見たときの一部として、どんな役割を持っているか、なのかもしれないな。
でもまだ言語化しきれない、学ばなきゃ。
自然界や土中環境について学びながら、そこには私たちが思っている以上に深く、言葉のないネットワークが確実にあるんだと気づきつつある。
05.自然の中で循環する"わたし"
実はあれからもう一度キングの山に行った。
死神が持ってそうな大きな鎌を渡されて、
シダが生い茂るところにひとりで送り出された。
普段の仕事に比べ山にいるとシンプルで
目の前のシダを刈るか、刈らないか、それしかない。時間を忘れて、結局4時間ほどシダを刈り続けていた。
ここからは山から帰って書いた文章。
最近いろんなことは分けて考えられないなと思う。自然農をする父がこんなことを言ってた。
"僕たちはいのちだ
いのちにはルールがある
腐ったサバを食べると、皆んな腹をこわす
息を止めすぎると死ぬ
いのちのルールに逆らわずに生きるしか道はない、あたりまえのことなのだ"
そんなシンプルな、いのちのサイクル。
口から吸った空気と、水とお腹に入ったものが血となり肉となり私たちの体はできる。
そうかあ、
どこからが"私"かなんて分からないよなあ。
私も、自然の循環の中にいる。
裏山を守る。
健康な山で生まれた水は、健康な海に流れていく。それが雨となり、野菜や米を育て、また私たちの口に入る。
育った木は材になり家となり私たちの生活を守ってくれる。
ある大工さんがこう言ってた。
その土地のものでその土地のためにつくるもの
それこそが建築だ。
そこに身を置いてその土地を読んで、
何を材にするのか、どんな自然の循環があるのかを知らないことには、土と繋がった建築はできないって。
自然界の中にいる動物。
山にいる狼は弱った生き物から食べるらしい。それは生態系にとって必要なこと。一面だけ見ると怖がられる存在だけど、彼らもそうやってバランスを保ってる。
人の病気だって、自分の中の弱っている部分を知らせるためのサインかもしれない。そうやって私たち自身が"自然"のバランスを取ろうとしているだけかも。
体内の菌には、いいものも悪いものもいて、それは土壌の中の菌たちと同じように養分を分解したり運んだり、大切な働きをしている。だから、全部殺してしまったら、何かが崩れていくかも。
そうしようとしている、そうさせている、
自然の働きの真意まで感じられるように、なりたい。
よし、ここらで終わりにしときます。
たくさんの人のアドバイスや言葉がつながって、考えを深めることができました!感謝!
2月末に今の仕事を退職したら、旅に出るつもり!もっと広げたい^ ^
また気づきがあれば書き進めていきます!