【運転士たちの現実】
中村勇は、運転士用の休憩室で、目をつぶりながら座っていた。
薄暗い照明が彼の眉間に刻まれた疲労を浮き彫りにしている。
勤務終了後から次の始業迄の時間を
《インターバル》と言うが、
今までは、最低限のインターバルは8時間だった。
それが、この度の改正によりインターバルが最低9時間必要となった。
さらに、努力義務としては、11時間以上を基本とする事が決まった。
この、インターバルを9時間に延長するという新しい規則は、
実際のところ、以前とあまり変わりはしなかった。
日々の疲労を回復するには、微々たるものだ。
家に帰るには片道1時間、そしてわずか数時間の安らぎのない睡眠、
そしてまた1時間かけて帰宅しても
3〜4時間しか眠れないのだ。
心も体も休めるには、到底足りない時間だった。
勇はベテランドライバーの佐藤をちらりと見た。
佐藤は、会社が用意した仮眠用の簡易ベッドを整えているところだった。
家族が家で待っているというのに、佐藤は6日間も営業所に泊まるしかなかった。
それは彼だけではなかった。
家族を持つ運転士たちはほとんど同じ選択をせざるをえなかった。
睡眠時間を少しでも確保したい為だ。
「無理して家に帰って、睡眠不足で運転するより安全だよ」
と佐藤は常々言っていた。
家族と過ごす時間を犠牲にしてでも《乗客の安全を守らなければならない》という使命感が彼をそうさせているのだ。
しかし、佐藤が、娘の写っているスマホの画面を、じっと眺めているのに、勇は気づいた。
「佐藤さんの娘さん、おいくつになられたんでしたっけ?」勇はさりげなく聞いてみた。
「おぉ、中村か。うちの一番下の娘は3歳になったばかりなんだけど、こないだ歩き始めたばかりだと思ってたら、幼稚園の運動会でかけっこ1等取ったんだよ。俺も見たかったよ。
その時の動画をうちの嫁さんが、送ってくれたんだ。娘が、会うたび大きくなってるのが分かるぜ!」
佐藤は、目尻を下げながら、嬉しそうに勇にスマホを見せて、娘の話をしてくれた。40過ぎてできた娘だから余計に可愛いのだろう。
本当はもっと娘さんや奥さんと過ごす時間が欲しいに違いないと勇は思った。
「俺にも、娘がいるから分かりますよ。」と佐藤に言った。
勇にも思春期の娘がいる。
「もっと娘さんと過ごしたいですよね・・・大きくなっちゃうと娘ってのはどう接していいものだか・・・」
そこまで言うと勇は口をつぐんだ。
新しいガイドラインは明確だった。シフト中のインターバルは最低9時間、可能であれば11時間。
しかし、勇が転属された空港行きのリムジンバスでは、
それは現実的には無理な話だ。
リムジンバスは、他のバス会社と共同運行スケジュールで動いており、
各社ダイヤを動かす余裕はほとんどなかった。
それに、バスに乗り続けていなくても、運転士は常に準備していなければならなかった。
勇は、バスを降りてから、次のバスに乗るまでの時間は、睡眠時間は
もちろん、次の路線ルートの確認や運転のシミュレーションをする時間としてあてていた。
そして、休憩の合間にも 、足りない睡眠不足を補いながら、体調を整えて、
次の路線ルートを確認するルーティンになっていた。
勇は、他の運転士も、少しの睡眠で何とかやりくりし、
休憩時間に仮眠しているのを知っていた。
会社は人手不足で、代わりの運転士はいない。
だから、誰かがバスを走らなければ自分も休めない。
睡眠不足と安全性について、勇は苦戦した。
規則と現実の狭間で綱渡りをしているようなものだった。
睡眠不足で疲れたまま運転することは、危険との隣り合わせである。
『それでも、なぜ、この仕事を続けているのか・・・?』
勇は、まだその答えを探し続けている。
どれだけ努力しても、運転士の安全意識だけで、
乗客を守るのは、難しい局面がある。
それでも、乗客の安全を守っていかなければならない。
はたして、この抜本的な解決策はあるのか・・・?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?