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檻の中ということ

いま日本にいて、非常にその外にいるという気がする。
言い換えれば、自由を感じるということだ。
となると、やはり檻の中にいたといえるだろう。

その檻は、目に見えない(実際には見えることも多いが)。
もっといえば、存在しない(ということにされている)。
非常にこう、空気的なものだ。
「檻の気配」ともいうことができるかもしれない。
そんな気配を呼吸し続けて、心がまったく躍らなくなってしまった。

このような檻の在り方の説明として、例えば有名なパノプティコン(*『全展望監視システム』という訳がナイスだと思った)を用いることもできるだろうが、私としてはもっと卑俗な/クソのような、つまり私個人の皮膚感覚的な表現でその「嫌さ」について記したい(実情としては最先端のパノプティコンだと確信しているが。いや、“超”パノプティコンか)。

そう…私はあいにくゴキブリが大嫌いなのだが、それはいうなれば「部屋のどこかに、不死身の超巨大なゴキブリがいる」ということだけが確実な状態で、その部屋で夕食を取らなければならないというような嫌さだ。

私にとって食事はとても大切なことで、特に夕食は一日の総仕上げというような存在であり、酒を飲みながらくつろいで夕食を取ることは睡眠と同じぐらい欠かせない。

そこに、不死身の超巨大なゴキブリが居合わせているわけだ。
姿は見えない。
影も見えない。
ただし、部屋のどこかにいることだけは間違いない。
そういう状態で夕食を取って…しかも、その後にはその部屋で寝なければならないということも決められている。

檻の中というのが抽象的でわかりにくければ、具体的に私が感じてきた嫌さはそういったものだ。

ところで、あえてゴキブリの大きさを「超巨大」と恣意的にしたのは、人によって感じる嫌さの程度が異なると思ったからだ。もっといえば、ゴキブリが苦にならない人だっていることだろう。

そのような人は、私のいっていることは腰抜けの戯言に過ぎないと思うだろう。
それはそれでいいと思う。
あくまでも私にとってはそうだということで。

今の私の気分は、みどりのひびだ。


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