見出し画像

平安京遷都で輸入された中国文化と日本文化の危機

第50代桓武天皇の延暦十三(794)年に律令国家日本は大和国平城京(現奈良県)から山城国平安京(現京都府)に遷都します。これを期に日本では唐風の中国文化がハイカルチャーを形成します。唐風文化の興隆期はこれを転じて「国風暗黒時代」とも呼ぶこともできます。この出来事は日本文化の形成史上に画期をもたらした意味において特筆すべき時代であると考えられています。この記事では桓武天皇の即位と平安京への遷都に焦点を当てて、唐風文化=中国文化が隆盛を極めた9世紀の平安前期から国風文化=日本固有の文化が復権を遂げる10世紀までの思想史を概観したいと思います。日本人が桜を愛でる文化を持つのもこの辺りの背景がキーポイントになります。

1,桓武天皇のご即位まで


桓武天皇(天平九(737)年~延暦二十五(806)年)は、はじめ山部王(やまのべのみこ)として天智天皇系の光仁天皇(白壁親王:しらかべのみこ)と韓半島の百済王武寧王(ぶねいおう)にルーツをもつ渡来系氏族の高野新笠(たかのにいがさ)との間に誕生した皇族でした。父王は壬申の乱において天武天皇に敗北した天智系の皇族であり、高齢でようやく高位の大納言に登ったいわゆる「パッとしない」存在であり、山部王は母方の血統が劣るために皇位継承の面では優先されず、山部王は母方の渡来系氏族の文化に親しんで育ちました。山部王の人生が一変するのは第48代称徳天皇(しょうとくてんのう:女帝)の崩御から始まっていきます。

2,「道鏡事件」後の皇位継承問題


「八幡信仰」の記事にも登場した僧道鏡による皇位簒奪が失敗に終わり、事なきを得た朝廷でしたが、一連の内紛によって有力皇族が粛清されていました。そこで白壁親王に白羽の矢が立ちます。白壁親王は宝亀元年に第49代光仁天皇として即位し、皇太子としては白壁=光仁と天武系の井上内親王(いのうえないしんのう)との間に生まれた他戸親王(おさべしんのう)が宝亀二(771)年に立太子されます。たしかにこの血統の皇族であれば順当な皇位継承の構図が描けたでしょう。しかし宝亀三(772)年、井上皇后が光仁天皇を呪詛した「皇后井上ノ内親王、巫蠱に坐せれれて廃せらる。」(『続日本紀』宝亀三年三月条)という咎で廃后の処分を受け、有望株であった他戸皇太子も連座して廃太子されてしまいます。そこで立太子されたのが山部王でした。この皇位継承の裏には藤原氏式家(しっけ)の台頭による擁立がありました。

3,天智系の「新王朝」としての再出発


天応元(781)年に光仁天皇が譲位して山部王が桓武天皇として即位します。桓武天皇は仏教色に染まった陰謀の渦巻く平城京に嫌気を抱いており、渡来系氏族の文化の中で育った背景を持っていたために大陸風=唐風の中国文化に強い憧れを持っていました。そこで延暦四(785)年に交野(現大阪府)において郊祀(こうし)という中国風の儀礼で天子として天地を祀ります。天子とは秦漢時代以降の儒学で天帝の命すなわち天命をうけて万民を統治する存在を指します。そして延暦十三(794)年に平安京に遷都する。これらの出来事は壬申の乱で天智系から天武系へと移った皇統がふたたび天智系に改まることを意味しており、かつての壬申の乱が革命の自覚を持っていたことを裏返す形で桓武即位は「新たな王朝」としての自覚を内包していたと言えます。

4,平安時代初頭の唐風文化


このように平安時代は唐化政策を徹底させることで文化を一新していく。第52代嵯峨天皇の時代には詩文を盛んにすることで国の安定をはかる「文章経国思想」に基づく政策をとります。「文章経国(もんじょうけいこく)」とは『三国志』の魏の文帝(曹丕:そうひ)が著した『典論』に依拠し、これは漢文作成の見本であった『文選』(もんぜん)に収録されて日本に伝わりました。これによって平安初頭の日本では漢詩文が儀式の場において盛んに作られ、唐風の梅を愛でる文化が貴族の間で大流行します。
そうした中で勅撰漢詩文集である『凌雲新集』(りょううんしんしゅう:弘仁五(814)年成立?)、『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう:弘仁九(818)年成立)、『経国集』(けいこくしゅう:天長四(827)年成立)が相次いで編纂される。

5,国風暗黒時代から国風文化の復権


このように当時の日本においては外国語である漢文によって文化が主導されていました。その間、和歌や物語・桜を愛でる文化などの和風=国風文化は隅に追いやられ下火になっていました。ですが借り物の言語と文化で人々の想像力を表現するには限界がありました。人々は自国の風土で母国語によって表現することを熱望するようになります。
こと和歌に関しては第54代仁明天皇の御代嘉祥二(849)年まで公の儀式の場で詠まれることはなく、半世紀ちかく下火になっていました。第57代陽成天皇の元慶六(882)年に宮廷で『日本書紀』の講書が行われた折の日本紀竟宴(にほんぎきょうえん:講義のあとの宴会)で参加者から『日本書紀』にちなんだ和歌が披露され、徐々に和歌が公的な場で復権しはじめる兆しをみせます。その結果、藤原氏北家(ほっけ)の後援のもとで第60代醍醐天皇におる『古今和歌集』が勅撰されることで国風文化は復権を遂げるのでした。

【参考文献】
・黒板勝美、國史大系編修會『続日本紀 前篇』昭和六十年四月一日
・子安宣邦『日本思想史辞典』ぺりかん社、2001年6月1日
・石毛忠、今泉淑夫、笠井昌昭、原島正、三橋健『日本思想史辞典』山川出版社、2009年4月22日
・佐藤弘夫編『概説日本思想史』ミネルヴァ書房、2005年4月30日

執筆者プロフィール:筆名は枯野屋(からのや)。某大学大学院文学研究科博士課程後期に在籍中。日本思想史を専攻。noteにてオンライン読書会の国文・日本思想史系研究会「枯野屋塾」を主催しています。( https://note.com/philology_japan )。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?