母と息子 185『魅惑の魂』第3巻 第2部 第113回
アネットがパリで過ごす最後の週になっていた。そこにリディア・ムリシエが戻ってきた。二人は互いを見た瞬間にかってと同じ優しさを取り戻していた。二人は互いを見た瞬間にかってと同じ優しさを取り戻していた。話をする前からすでに二人の唇が合わされていた。だが言葉が形になると互いの間に壁があることに気づかされた。二人ともそれを意識しながら話していた。
その壁を通り抜けるドアの鍵は二人とも持っていた。しかし二人とおの同じこと思っていた。その鍵を自分から使うことは、けっしてないだろう。壁は取り払って相手とほんとうに触れ合いたい。けれどもそのために自分で取り払う気持ちには、どうしてもなれなかった。
以前のリディアは、控えめだが率直だった。だが今のリディアはそれを失っていた。かってはそれが彼女に詩的な優美さを与え身動きの一つに一つに優雅な香りを放たさせていた。だが戦争で夫を殺されてからの彼女は、その率直さを自分で押し潰し悲しみのベールで覆ったのだった。彼女は本性を犠牲にして死者に捧げたのだ。夫の亡骸を探して戦禍の跡を訪ねたころの神秘的な陶酔は長くは続かなかった。悲痛で病的でありがらも彼女の魅力だったものは薄れていた。たしかにこうしたものは、自然に薄れていくのは、とうぜんだった。自然は心に恵みを求めさせ忘れることを望んでいる。死んだ男を思い出させるには。鎖に繋ぎ拷問にかけるしかないだろう。人間の感情は、石臼に繋がれて鞭を受ける奴隷なのだ。リディアは死んだ男のことを思いだすと身が固まるしかなかった。
「それでも彼のことを考えないわけにはいかないでしょ! 辛くたって彼のことを考え続けましょう!…」
そう言ってもリディアには不十分だった。
「彼の気持ちになって考えてほしい!…」
彼女はすでに自分で考えることを捨てていた。忘却すること、彼女には忘却することだけが今を生きていくことだった。周りもそれを望んでいる… (夜に訪れる沈黙の中に、愛が残した宝物を壊そうとするものいた。それは死と戦う魂の悲劇的な闘争でもあった。)彼女はジレールの家の魂を生地で受けて生きていくしかなかった。あの乾いて燃える理想主義の衣を被らなければならなかった。いまの彼女が語るのはジレールの家の魂の言葉だった。ジレールの家の魂が傷ついた女の愛情を借りて喋っていた。