「勝ちにこだわる」考
為末大氏の「全国大会は高校生から、中学生までは全国大会がなくてもよいのでは、勝てる子はそのスポーツが好きになるけれど、そうでない大多数の子が運動そのものを嫌いになってしまうから」という内容の提言を紹介したら、同意する人も多い半面、勝ちにこだわる意見も多数。
井上雄彦氏の作品「スラムダンク」には、キャプテンとなる登場人物が、同級生の勝ちにこだわらない姿勢に苛立ち、ぶっ飛ばすシーンが描かれていたと記憶する。「勝ちたくないのか?」と言っていた気がする。
やはり同氏の作品「リアル」では、勝ちにこだわり、練習熱心な青年が、熱心すぎるあまり「暑苦しい」とされ、リーダーから排除され、ついに退学にまで追い込まれるシーンが第一話で描かれている。著者にとって、勝ちにこだわることはとても重要な要素として描かれているように思う。
他方、「リアル」では、勝ちにこだわるあまりにチームメイトの心がバラバラになっていくシーンも描かれている。障害者バスケでは、障害の度合いによって行えるプレイに違いがあり、ついていきたくてもついていけない、バスケだけでなく仕事もある、というので、バラバラに空中分解しかける。
また、筋力が次第に衰える病のために、バスケが好きで仕方ない青年が、ボールを持っていることさえ難しくなっていくシーンが描かれている。勝ちたくても勝てない。でもバスケが好きで仕方ない。その「好き」という気持ちが、主人公に尊敬の念を抱かせるシーンもある。
「スラムダンク」の段階では、勝ちにこだわらない人間への軽侮、勝ちにこだわることへの賛美が感じ取れるけれど、「リアル」は障害者バスケを描いているということもあって、単純ではなくなっている。負けて悔しい、勝ちたいという気持ちを描くのは忘れないけれど、それだけではない要素を描いている。
私は最初の本「自分の頭で考えて動く部下の育て方」で、部下を競争的原理の中に放り込むのは、ごく一部の例外を除いてやめておいたほうがよい、と指摘した。シンクロナイズドスイミングの井村雅代氏は、非常に厳しい指導で知られる。競争原理の中に選手を叩き込み、磨き上げている。
しかしそうした指導が可能なのは、全国から選ばれし選手だけを相手にしていること、オリンピックという栄光の舞台が用意されていること、それに出場できるのはさらに選ばれし人間だけであること、という特殊条件がある。こうした強烈な憧れと報酬がある場合、競争原理はうまく働く。
「しかしあなたの企業は、オリンピックに相当するような栄光の職場なのだろうか。メダルに相当する報酬が用意されているのだろうか。ほとんどの職場はそうではないだろう。そんなところで競争原理を働かせれば、ただ意欲を奪い、パフォーマンスを悪化させるだけに終わるだろう」と拙著で指摘した。
私は、競争原理が機能する場所はある、と考えている。ただしそれはトップクラスが栄光を競うというごく限られた場所でのこと。競争で負けた人間がどこへ行こうと、新しい人材がどんどん集まってくる場所なら、競争原理で絞り込んだ方が、より優れた人間を選ぶことが可能。しかし。
選ぶ立場にない会社というのが大多数。なのに競争原理にしてどうするねん?というのを問うたのが、最初の本だった。これは、スポーツや教育の場面でも言えることではないか、と考えている。
トップクラスは、競争原理でもよいかもしれない。勝ちにこだわってもよいかもしれない。しかしトップクラスに適用する方法を、全体に適用するのは思考停止しているように思う。人と比較し、勝てないことを思い知らせ、それでスポーツなり勉強なりを嫌いにさせたら、その人のパフォーマンスは下がる。
勝つことがスポーツのだいご味だ、という意見も多かった。しかし、私は若干首をかしげる。スポーツを楽しんでいたら結果として勝てるようになった、というのなら分かるけれど、勝たなければスポーツの喜びは味わえない、というのは極論ではないかと思う。
為末氏が冒頭の発言をしたのは、オリンピックでのスケボー選手の姿が大きく影響したように思う。スケボーの選手たちは、勝敗以上にスケボーそのものを楽しんでいた。だからたとえ負けることになっても大技に挑戦した選手をたたえた。敵味方なく、その挑戦者を囲み、たたえた。
誰が一位になったかどうかではなく、みんなでスケボーというスポーツを楽しんでいる、という空気が、非常によく伝わった。スポーツをしている人たちに、あの姿はかなり印象的だったらしい。勝ち負けにひどくこだわっていたそれまでの世界観が大きく揺らいだ人も多かったようだ。
WBCで日本が世界一となった。勝ちに行ったし、そして実際に勝った。けれど、なんだかこれまでの日本チームと大きく違うな、と思ったのは、「野球を楽しもう」という気持ちが、監督から選手にまで広くいきわたっているな、と感じたこと。
一つには、チェコのチームのユニークさにもあっただろう。本業を別に抱えながら野球好きが集まり、WBCに参加したというのも話題をさらったが、彼らのフェアプレイぶりも評判になった。何より、野球が好き!野球が楽しい!というのがよく伝わった。
日本は各国と戦って勝ちをおさめたけれど、ともに野球を楽しむ仲間じゃないか、という気持ちが、日本選手に非常にしみわたっていたのが、今回のWBCの特徴だったのでは、と思う。だから、対戦中も相手への敬意を欠かさず、対戦後も互いにたたえ合うシーンが見られたのだと思う。
私は、勝ち負けはあって構わないと思う。どうせ、誰が一番速いかなんて、子どもたちは一緒に遊ぶ中でよく知っている。競争をなくしても、子どもは優劣をよく知っている。だから、変に勝ち負けを拒否し、嫌う必要はない。
だから、勝ち負け否定主義になる必要はないと思う一方で、勝ち負け拘泥主義もおかしい、と思う。勝ち負けに拘泥すると、パフォーマンスが低下する事例がとても多いから。フィギュアスケートの鈴木明子選手は早くから活躍した選手だけれど、スケートが嫌になり、やめた時期がある。
完全にスケートから離れた時期に、「あ、私、スケートが楽しんだ、好きなんだ」と気づかされる出来事があり、それ以後、スケートを楽しむようになったという。彼女は一位にはならなかったが、会場を湧かすのが非常に上手だった。それは何より、彼女がスケートを楽しんでいたからだろう。
楽しんでいたからこそ、一位ではないにしろ、上位にいつも食い込んでいた。トップ選手の一人でい続けた。それができたのは、楽しんでいたからだと思う。けれど勝負や成績にこだわると、その心理的プレッシャーで潰されてしまう。
「前畑がんばれ」で有名な前畑選手は、紀ノ川でよく泳いでいたと祖母から聞かされたことがある。ものすごく速かったらしい。ともかく泳ぐのが好き。楽しくて仕方ない。で、メダリストになった。すると、日本中から期待を集めるようになった。その結果、前畑選手はつぶれてしまった。
期待に応えようとして、勝たなければ、という心理になった。すると焦りばかりが募り、心理的な疲れが蓄積し、ついに泳ぐことが楽しくなくなってしまった。むしろつらくなってしまった。すると、成績が出なくなってしまった。
「勝ちにこだわった方が上達する」というご意見が複数あったけれど、少々、言語化が不十分なような気がする。鈴木選手や前畑選手は勝ちにこだわった結果、潰れてしまった過去を持っている。勝ちたい気持ちが上達させる場合もあるが、逆に潰れるケースもあるということは、この言語化は雑ということ。
私は、「楽しむから上達する」という方が適切な気がする。鈴木選手も前畑選手も、楽しくて仕方ないから上達した。楽しくなくなったら成績が伸び悩んだ。実は勝敗ではなく、「楽しむ」ことができるかどうかが、成長を左右していたと言えるのではないだろうか。
冒頭の「スラムダンク」の登場人物も、バスケが楽しくて仕方ないから上達したのだろう。でもチームで行う競技だから、メンバーにやる気がないと一人で上達しても勝てない。だからメンバーにやる気を出せ、と怒りを覚えたのだろう。
しかし、やる気って、他人から怒られたり怒鳴られたりして湧くものだろうか?逆だろう。瞬間にやる気は失われるだろう。やる気を出せって怒鳴った途端、やる気は雲散霧消してしまう。人間は、そうあってほしいという願望と、それを実現するための行動が必ずしも一致しない生き物。
やる気は原則、楽しいから湧いてくる。楽しいと上達したくなる。工夫を重ねる。工夫を凝らすからどんどん上達する。それがまた楽しい。そうした好循環を生むのが、「楽しむ」だろう。だとすれば、勝ちにこだわり、勝てないことに苛立つのは、「楽しむ」から遠ざかる愚かな行為。
楽しんでいると、人によって上達するスピードや水準は違うかもしれないが、確実に成長する。成長すると、もう少し背伸びしたくなる。力を試したくなる。その結果として、勝利が転がってくることもある。勝ちにこだわるから勝つのではなく、楽しんでいるうち、勝つこともある、のではないか。
「レベルの高い子とそうでない子を分けたらよいのでは」という意見があった。それも一つかもしれないが、私には忘れられない体験がある。子どもの頃、公園に行くと高学年のお兄ちゃんが「みんなでキックベースボールをしよう」と声をかけた。上は6年生、下は3歳児も参加。
3歳児には、置いたボールを蹴る、一塁には5秒数えてからでないと投げてはいけない、というルールを独自に作ることで、3歳でもスリリングに楽しめるようにしていた。他方、うまくて体力のある6年生には容赦なく剛速球。一塁にすかさず投げてアウト!
それぞれの体力、技能に合わせてルールを創り、全員がフルパワーで参加できるスリリングなゲームにしていた。この方式だと、誰もが全力。そして自分ももう一段上のルールで戦えるようになりたいと考えるようになる。緩いルールから脱することは、自分の成長のあかしとも感じられる。
こうすると、巧拙に関わらず全員参加で楽しめる。うまい人間が下手な人間を罵り、「お前はもう参加するな!」なんて言って、下手な人間に強烈な劣等感を刻むような悲劇を起こさずに済む。全員が楽しんで、全員がパフォーマンスを向上させることができる。
勝ち、負けにフォーカスを当てすぎるのはいかがかな?と思う。それより、昨日の自分よりも今日の自分は成長した、と思える、それを楽しめる「構造」をデザインすることに、もっと知恵を絞ってもよいような気がする。人間は、上達し、成長することが楽しい生き物でもあるから。
「勝つ」というのは、選ばれたごく一部の人だけが楽しめるもの。楽しめる人がごく一部の割には、大多数の人が楽しくなく、それ以上に劣等感を植え付け、「もう見たくもない」という嫌悪感を根付かせるのは、全然生産的でない気がする。なによりつまらない。
全員がスリリングに楽しむことができ、自分の能力を向上させることができ、工夫を重ねずにいられない、そんな「構造」をデザインすることはできないだろうか。3歳から6年生までを楽しませる構造を子どもがデザインできるなら、大人はもっと素晴らしいものがデザインできるはず。
今までのスポーツがそうだったからといって、そのまま工夫をしなくてよい、ということにはならない。スケボー選手が見せたあの世界を、他のスポーツでも現出するにはどう工夫したらよいのか?私たちはその工夫に挑戦することを「楽しむ」のでもよいのではないだろうか。