「こう動かなければ承知しないぞ」圧
タバコ一服して仕事に戻ると、上司がストップウォッチで時間を計測していたという。上司いわく、喫煙者は余分に休憩してる、と。愚かな上司もいたものだ、と思った。その人は働き者で知られ、リフレッシュしたほうが効率いいのに。そんなことしたらむしろ全体のパフォーマンス悪化する。
その塾は、子どもたちが思わず図鑑をひっくり返したくなるようなワクワクする講義をしており、多くの子どもがそうするのだけど、そうならない子どもがいるという。教室の後ろにいる母親の視線を常に背中に感じ「お金をかけてわざわざ連れてきてやったんだから、進んで勉強しないと承知しないよ!」圧。
なぜだろう。人間は誰かから「こう動かなければ承知しないぞ」圧を感じると、断じてそちらの方向に動きたくなくなるのは。そういう圧は、上司や親など、上の立場にいる人がよくかけてくるけど、大体狙いとは逆の効果をもたらす。部下や子どもはその「くびき(軛)」から逃れようとする。
「フランダースの犬」のパトラッシュは、最初の主人に荷車引きを命じられ、少しでも働きが悪いとムチ打った。パトラッシュはついに、どれだけムチ打たれても動けなくなり、瀕死に。そこへ主人公のネロが介抱し、命をとりとめた。元気を回復したパトラッシュは、ネロの引く荷車を引きたがった。
ネロは、病み上がりなのだから無理しなくていい、という。そう言われれば言われるほど、パトラッシュは荷車を引きたがり、重い荷車を喜んで引いた。
この話は小説だし、犬だけど、パトラッシュの気持ちは分かる気がする。
「ほら!早く着替えなさい!」とせかしても、全然着替えようとしない子ども。服を大人が着せてやろうとしてもよそ事ばかりして、一向に着替えが進まない、というご家庭も多いのではないか。
でも、面白い方法がある。「〇〇ちゃんはまだ小さいから、ズボン一人でよう着いひんわなあ、手伝おうか?」
すると「着れるよ!」と言って即座にズボンを着て見せて、ドヤ!顔。私は驚いて、「うわ、まさか!でも上の服は袖通すの難しいわな、どれ、お父さんが手伝ったろか?」というと、「できるよ!」と言って、見事に着て見せてくれる。あれだけ何を言っても着ようとしなかった子が!
私が思うに、子どもは「驚かす」ことができないとつまらないのではないか。服を着せようとする親が待ち構えてる環境では、たとえ服を着ても親は驚かない事が明白。だからつまらなくなって、よそ事で楽しもうとしてしまうのではないか。
他方、私の声かけは、「それを実行すると、お父さんはまさか!と思って驚くことになるぞ」ということが伝わるデザインにしている。すると、俄然やってみたくなるらしい。ササッと着替えれば、お父さんの「意外」に出ることができ、お父さんを驚かすという楽しみが待ち構えている!と。
冒頭の上司も、やり方を次のように改めてみては、と思う。タバコを一服してからの仕事ぶりを見て、「ニコチンパワーなのかな、私はタバコを吸わないからわからないけど、一休みしてからの君は仕事がはかどるみたいだね、出来がいい」と軽く驚いてみせると、ウソがマコトになりやすくなると思う。
子どもって、いや大人だって、「意外」に出たがる生き物のように思う。「お前はこうすべきなのだ、それ以外は許さん」というレールを引かれると、断じてそのレールに乗りたくなくなる。しかし「人間がレールの上走るわけないやん」と考えてると、なぜかレールの上を得意げに走る。
私は声かけをする場合、「何をすると私が驚かされるハメになるか」が伝わるデザインをする。その言葉は当然、「普通はそんなことするわけがない」というものになる。すると面白いことに、なぜか多くの人(子ども)が、私を驚かす行動を選択する。不思議。
私の言葉通り、「普通」を選択しても構わない。事実、私はそう言ってるのだから、言葉通りに行動すればよいし、実際、その通りに行動しても、私は何も言わない。私の言ってる通りにしてるわけだから。私自身、他人とはそういうものだと考えているから、期待していない。「普通」で全然問題ない。
ところが、ふと気が向いて、私の「意外」に出ることがある。私は「え?私が何も言わないのにやったの?スゲーな!」と驚くハメになる。すると、相手は楽しくなるらしい。こんなことで驚くなら、もっとやってやろうか、と楽しんで取り組むようになり、ますます私が驚かされる。「え?また?スゲー!」
パトラッシュが、前の主人のためにはムチを打たれても断じてやる気が出なかったのに、ネロのためなら喜んで荷車を引きたくなったのは、ネロが自分に一切期待せず、期待値ゼロであるところに自分が荷車引いてネロを驚かせ、喜ばすことができたからだと思う。
不思議なものだ。期待されると期待通りには動きたくなくなる。期待されていないけど、それをやると相手は驚き、喜ぶことが予想できると、やってみたくなる。人間は「意外」に出たがる、「驚かし、喜ばせる」が大好きな生き物のように思う。
ビジネスを描くドラマでは、しばしば社長から「期待しているよ」と声をかけられ、嬉しくなってやる気を出すシーンが登場する。これは期待を受けてるのに、なぜやる気が出るのだろう?それは恐らく、期待してると言葉では言いながら、たくさんいる社員の中に埋もれて忘れてるのが当然と思えるから。
そのまま多くの社員の中に埋もれるのが普通と社長も考えてるはず。そこでまた活躍すれば社長は驚き、喜ぶだろう、と考えることができる。これも「意外」に出るパターンの一つのように思う。
他方、優秀な人材として迎え入れ、高収入を約束し、ほめちぎり、「期待しているよ」と声をかけると、
思ったより働きがよくなく、むしろ会社を休みがちになり、期待外れに終わることが多々あるという。これは、高いパフォーマンスをするのが当たり前と捉えられ、どんな成果を出しても驚いてもらえないという絶望とつまらなさで心が押し潰されるからかもしれない。
それよりは、期待値をグッと下げ、「まあ、新しい会社だと勝手もわからないだろうから、ボチボチやってよ」とでも声をかけたほうがよいと思う。そして、相手が意見を出してくれたとき「お!もうそんな業界の知識を仕入れたの!早いねえ!」と驚いて見せたら、やる気がグンと加速するように思う。
業界の知識を仕入れれば仕入れるほどこの人は驚いてくれる、というデザインが、業界の知識を仕入れる楽しさを倍加するのだと思う。
他方、あっという間に即戦力になってくれることを期待するトップの下だと、「まだこんなことも知らないのかね」とやられて、心折れやすくなる。
ビジネスマンなら期待されるのは当然、そのプレッシャーで潰れるようならその程度、というのはその通りかもしれない。しかし、どんなトップだと働きやすいか、パフォーマンスを高めやすいかというのはあるように思う。期待値をガンガン高くするトップの下は概して働きにくい。
「期待値を下げる」というと、「見捨てる」という意味に勘違いされることが多い。もし子どもが期待通りに進んで勉強したり宿題したりしても、普段自分の期待通りには動いてくれない報復とばかりに「あら珍しい、夏だけど雪でも降るかしら」なんて言ったりすると、もう子どもはゲッソリする。
期待はしない、もしそれが起きたら驚き喜ぶ、そんな心構えとは何だろうか。私は、赤ちゃんへの親の接し方が理想だと考えている。赤ちゃんは言葉も通じない。だから何も教えることができない。親ができることは、健やかな成長をただひたすら祈り、見守ることだけ。この心構えが最高だと思う。
それまでゴロンと転がってるだけの赤ちゃんが、少し笑ってくれたように見えた!自分のツメでひっかき傷だらけだった顔が、傷つかなくなった!寝返り打った!首がすわった!お座りできるようになった!離乳食口にした!毎日が変化と驚きの連続。
それらの変化を、親はどうすることもできない。促すことさえできない。赤ちゃん自身が自分のペースで獲得していくしかない。親は、ただ祈ることしかできない。そんな無力を感じてる中で、赤ちゃんが自らの力で成長していくことに奇跡!親はその都度、驚かずにはいられない。
赤ちゃんは、親が自分の成長に驚き、喜んでくれるのを肌で感じて、いつしか、自分の成長で人を驚かすことを何よりの楽しみとするようになるのかもしれない。人間が「意外」に出たがるのは、赤ちゃんの時の記憶があるからかもしれない。
ならば、誰もが「意外」に出て驚かす楽しみを味わえるようなデザインを考えたらよいように思う。何も学ばないのが当たり前、成長しないのが普通(実際、大人になるとそれが普通)と捉え、期待値をグッと下げる。どの時点で成長するかは当人に委ねる。任せる。そしてひたすら待つ。祈る。
そうした心構えだと、わずかな変化でも「おお!」と驚かされることになる。祈る思いだっただけに。委ねるほかなかっただけに。すると相手も楽しくなり、ますますハッスルするようになる。不思議な好循環が生まれる。期待しなかった好循環が生まれる。本当に不思議。
期待するのをやめ、委ね、任せ、待つ。そしてただ、その人の健やかな毎日を祈る。すると不思議なことに、奇跡が起きる。こちらが働きかけもしないのに本人が能動的に動くという奇跡、それによって本人が成長するという奇跡。それに驚くと、ますます能動的に成長する奇跡が加速するという奇跡。
委ね、任せ、待ち、祈る。すると、昨日と今日の「差分」に気づかずにはいられず、驚かされるハメになる。こちらが驚くと、ますます相手は能動的になり、成長するというモードに移る奇跡が起きる。この「委ね、任せ、祈り、驚く」というマインドセットは、奇跡をたぐり寄せる不思議な力があるようだ。
こういう話をすると「子どもを信じてあげるのが大切、ってことですよね」と反応されることがしばしば。でも「信じる」って言葉、解像度が悪い。私の名前でもあるんだけど。
「信じてたのに裏切られた!もう信じられない!」って怒る人がいる。でもその「信じる」って、「期待してる」に言い換え可能。
人間は期待されると、その期待から外れたがるようになるのは、これまで述べてきた通り。でも、とても嬉しい信じられ方はある。「3年B組金八先生」第二シリーズで、生徒たちが大暴れしたとき、金八先生が叫ぶ言葉。「裏切られても裏切られても、信じること、信じ切ってやること」。
この金八先生の信じ方って何だろう?特定の行動を期待するものではない。すぐに改善することも期待していない。子どもたちに何か縛りをかけるものでもない。漠然とした形かもしれないけど、子どもたちは自分の力で気づき、成長していく力がある、と信じているのだと思う。途中で何が起きようとも。
そう、子どもたちが途中で何をし、どんなことをやらかしても、任せ、委ね、ひたすら待っているのだと思う。祈りながら。そしていつか成長したとき、「まさか!」と言って、でも手放しで驚くことになるのだろう。そうした心構えが、金八先生のいう「裏切られても裏切られても信じ切る」なのだと思う。
でも経験上、「任せ、委ね、待ち、祈り、驚く」という姿勢でいると、不思議なことにそう無茶なことにならないと感じる。任せられてるから、委ねられているから、自分でしっかり考え、行動するようになるからかもしれない。親が先回りして考えると、子どもは思考のアウトソーシングをしてしまうのかも。
任せ、委ね、待ち、祈り、驚く。こうした心構えでいると、いろんなことが好転しやすくなるように思う。お試しあれ。