強制・期待はやる気を奪い、能動的に「驚かせる」環境はやる気を増す

ほんのちょっとでも働きたくない、動きたくない、と思うこともあれば、もっと働きたい、動きたい、となることもある。いったいこの違いはどこで生まれるのだろう?恐らく前者は強制だったり期待された時、後者は自由に能動的に動けた時のように思う。

もし上司に「これはお前の仕事なんだから最後まで責任をもってやれ、自宅に持ち帰ってでも完成させろ」と言われたら、ものすごくやる気を失うだろう。なるべく手を抜き、残業代でもせしめてやろうか、という気になる。なるべく従わずに済む方法を考えるようになる。

でももし「これを手伝ってもらえると大変助かる、でも本来こちらの仕事だから、無理ならこっちでやるから気にしないで」と言ってくれる場合、他の仕事をうっちゃってでも早くその仕事を済ませて驚かせてやろう、という気持ちになる。言い方ひとつでやる気が全然違ってしまうのはなぜだろう。

こちらが相手のためにすることを当然視され、期待されると、人間は気が重くなるらしい。相手の思惑通りに動くのがシャクに障る。面白くない。まるで自分が相手の奴隷になったような気分で、自尊心も傷つけられる。そのため、ひどくやる気を失ってしまう。

しかし、こちらがどうしようと別に構わない、これからも良好な関係を続けることに違いはない、という態度で相手がいる場合、なんかやってあげることで驚かしてやろう、喜ばせてやろう、という企みが頭をもたげてくる。自分がどうしようと自由、という自由が担保されていると、やる気が出る。

自分が企画し、自分でやりたいと思って始めた仕事は、徹夜続きになっても「もう三日もろくに寝ていないんだよね」と言いながら、嬉しそうに仕事を続けてしまう。自分自身が能動的に取り組めることは楽しい。楽しいからどんどんやる気が出て、どんどん続けられる。

しかし、「やるのは当然」とみなす人間がいると、アマノジャクが頭をもたげる。やりたくなくなる。「前にこれをやってあげたんだから、お返しにやってくれるのは当然でしょ?」と期待されるのも、なんだか気が重くなる。やる気を失う。他人の期待通りに動くのは、人間はイヤになるらしい。

なのになぜか人間は、応援しているつもりで「期待しているよ」と声をかけてしまう。期待することは相手へのプレゼントだと思っているフシがある。期待するということは、相手の能力を認め、高く評価している証なのだから、嬉しいでしょ?ありがたいでしょ?というわけ。

でも期待はしばしば「ありがた迷惑」。「あなたの期待をどうしてありがたがらなきゃいけないわけ?」と、イラっとする。期待されたら「ありがとうございます、頑張ります」と答えなきゃいけない「様式美」が当然視されているのだけれど、その通りに返答した後、気が重くなることがしばしば。

もちろん、「期待しているよ」と言われて嬉しいケースもある。それは、相手が雲の上の人だとこちらが感じている場合。まさかそんな言葉をかけてもらえるなんて!と感じる場合は、「期待しているよ」の言葉がすごくうれしく感じる。雲の上の人が、自分のことを気にかけてくれていたなんて!と。

しかし、別に雲の上の人でも何でもない人から「期待しているよ」と言われても、ありがたみがない。むしろ「期待通りの活躍をしなければ罵るよ」という裏メッセージを無意識下に感じて、気が重くなってしまう。実際、期待していた人は「裏切られた」と言って怒る人が少なくないし。

ところが期待していない人で、こちらを好ましく思ってくれている人は、こちらが上手くいかなくてもそのままの関係を続けてくれる。「勝負は時の運、失敗はつきもの、気にしない気にしない」という態度でいてくれる。それでいて、上手くいくと「わあ!やったねえ!」と手放しで驚き、喜んでくれる。

こういう人のためだと、もっと頑張っちゃおうかな、という気になる。なぜだろう?
私が思うに、「驚かす」ことができるかどうかが、分かれ目になっている気がする。期待する人、強制してくる人は、こちらがその通りにしてやっても当然視し、ちっとも驚かない。「当たり前」という態度。

他方、こちらに好意を持ちつつも、あれこれしてほしいなどと一切期待しない人は、何かしてあげると「ええ?いいの?ありがとう!本当にうれしい!」と、こちらの好意に驚き、喜んでくれる。こうした好意的な驚きの反応を見ると、人間は「もっと驚かしたい、喜ばせたい」という気になるものらしい。

強制してくる人、こちらの好意を期待し、当然視する人は、驚いてくれない。何かやってあげても当然視する。こうした人に何かしてあげることは、とてもむなしく感じるし、徒労感がものすごい。二度とやりたくない、という気になる。気力をすごく奪われる。辟易する。

他方、こちらに好意を持ってくれていて、こちらが好きに動くことをニコニコ見てくれていて、何もこちらから期待しない人は、何かちょっと好意を見せただけで驚き、喜んでくれる。こうした人には、どんどんやってあげたくなる。ますます能動的に、意欲的に動きたくなる。

人間は、他者の反応によって相当に影響を受ける生き物であるらしい。「ユマニチュードへの道」で、ジネスト氏は、人間は、相手からの反応で生理学的な化学反応が起きる生き物なのだ、という。たとえば、こちらが声をかけても、木で鼻をくくったような態度をとられると、次の言葉が出なくなる。

そればかりでなく、気が重くなる。脳の中で、気が重くなる成分が出るのだろう。その後、不快な気分になる。脳内でそうした化学的な変化が起きているということ。
他方、こちらの声掛けに対して明るく楽し気に反応してくれると、次の言葉もかけたくなる。脳みそがフル回転し始める。

人間は、他者との関係性の中で、生理学的な化学反応を誘導される生き物。それによってやる気がますます高まることもあれば、やる気なんかこれっぽっちも出してやるもんか、と意固地になるくらいに閉じこもってしまうこともある。人間は、関係性によって体内の化学反応まで変わってしまう生き物。

大学の同級生で、当時40代の人がいた。倍の人生を生きている人に、4回生での研究室選びの基準を聞いてみると、「人間関係だよ。それ以外にない」という回答で私は戸惑った。いや、何を学べるかの方が大事でしょ、と、当時は思った。でも年を食って、「ほんとだ、人間関係超大事」と思うように。

どれだけ面白い仕事でも、人間関係が地獄だと心理的に非常にしんどい。一人で取り組めるなら楽しい仕事も、「明日までにやっておけよ!」と命じたり期待してくる人間が一人いると、やる気を失ってしまうことも。人間は、他者の思惑通りに動くのがかなりイヤな生き物であるらしい。

人間はどうやら、他者を驚かしたい。他方、他者の思惑通りに動くことは、奴隷になったような気分で気が重くなる生き物であるらしい。そうした心理になるよう、脳内の生理学的反応が起きてしまう。関係性が生理学的反応を引き起こしてしまう生き物だと承知しておいたほうがよいらしい。

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