自分を、人間を肯定する体験
阪神淡路大震災で出会ったボランティアの一人が「今、この場で死ねたらむっちゃ気持ちいい」と言った。
被災地に来るまで自分のことを薄汚い人間だと思っていたが、現地の被害を見て駆けずり回り、知らぬ間に人のために必死になってる自分に気づいて、自分を肯定できる「今、死にたい」と。
地元に戻ればまた人目を気にして偽善者に戻ってしまうだろう。あるいは気恥ずかしくて偽悪のように振る舞うだろう。また自分は薄汚くなってしまう。「そんなくらいなら今死にたい」と言った。私も同感だった。
私も1月21日に初めて神戸入りしたとき、同じ感覚になった。
西宮北口から徒歩で西に向かった。時折傾いた家を見て、かわいそうに、大変だな、と思う反面、かわいそうだと同情する自分って善人、とほくそ笑む自分、そんなことで喜ぶ自分の薄汚さにヘドが出る自分、そんな複雑な思いで歩いた。
国道を歩いていくと、巨大な白い壁があった。奇妙に思い、近づき、壁を触っていたとき、初めて気がついた。根本で折れ、横倒しに倒れたビルだった。道向こうの家を潰して。
住んでいた人は?このビルの中に人はいなかったのか?ビルの根本にあったであろう家の人は?私は頭が真っ白になった。
そこから三宮まで歩き、被災地の状況を見て回った。西宮北口に戻り、電車に乗ると、気絶した。大阪に着き、降りようとすると足が全く動かず、驚いた。そこまで歩かずにいられないほどの衝撃だった。
それからは、平日に卒論研究をし、金曜日の夜から被災地に向かうようになった。
95年の阪神淡路大震災が起きるまではバブルの余韻が続き、人間はカネで動くもの、欲望で突き動かされるもの、善人ぶった偽善者はいても心から善意で動く人間などいはしない、というペシミスティックなものの見方が強かった。私も私自身を信じられず、醜い人間だと感じていた。
しかし、やってることの是非は別として、人のためになることは何かと必死に探し回り、それに全力で走り回る自分にふと気づいた時に「あ、人間はもうちょっと信じてよいかも」と思えるようになった。人間を信じられるようになり、自分も肯定できるようになった。
人間は、いざとなれば自分のことなんか全部忘れて人のために動こうとする本能がある。ただ、欲に負けたり知恵が足りなかったりして、人に迷惑をかけることがある。でも、そんな本能があるなら、まずは人間を肯定してもいいんじゃないか、と思えるようになった。阪神淡路大震災は、人間観を変えた。
私が人間を何かの尺度で評価するのをやめたのはそこから。まずは批評することなく、人間のありのままを観察する。様々な特徴に気づいては面白がる。どんな人物も、まずは観察して楽しむようになったのは、阪神淡路大震災から。
阪神淡路大震災で人生が変わった人は数多い。私もその一人。あの時見たこと、感じたこと、考えたことが土台になっている。
人を信じられるようにしてくれた、転機となった出来事。