「嗤い」以外でも権力者をやり込め、礼儀正しくさせる方法はある

(「嗤い」が権力者をも従える強力なツールであるならば、否定するのはマズいのではないかという意見に対し)

いいえ。「嗤い」以外にも手法があるから、「嗤い」を肯定的に捉える必要はありません。
晏嬰が斉の使者として楚を訪れると、正門は閉ざされ、犬の門だけ開け放たれていました。「国に入りたければその門を通れ」と。仮にも国の使者として訪問した人間が犬の門をくぐれは、それは祖国の屈辱。

さりとて、怒って戻れば、使者の使命を果たせません。普通ならここで自縄自縛となり、追い詰められるところです。しかし晏嬰は卓抜した答えを出しました。「楚の国が犬の国だというならこの門をくぐろう」。もしくぐられたら犬の国であることを認めてしまうことになる。楚は仕方なく正門を開けました。

楚王はまだ晏嬰をからかうことをやめませんでした。酒宴もたけなわのとき、泥棒を引っ立て、「この泥棒は斉の人間だ。斉は泥棒の国なのか」と、ニヤニヤ笑いながら晏嬰をからかいました。ここでそんなことはない、と否定しても、斉人の泥棒がいる以上、説得力がありません。

またしても追い詰められた晏嬰。ところが晏嬰はここでも見事な返しをしました。「カラタチとタチバナという植物をご存じですか。この植物は本来同じものですが、河の北と南で葉も実も異なる姿になります。育つ土地が違うからです。斉には泥棒がいませんが、楚で泥棒を働くとなると、

楚は人間を泥棒に変える土地柄なのでしょうか」と返され、楚王はすっかり参ってしまい、以後、晏嬰をからかうことはしなくなり、晏嬰は使者としての使命を十分果たすことができたと言われています。

晏嬰の用いた手法、それはこちらを追い詰めようとした論理をそのまま借用して、相手が追い詰められる論理に仕立て上げることです。「犬の門」では、相手の論理を否定せず、むしろその論理を伸ばしていけば、楚の国はイヌの国ということになりますけどいいですか?と返したわけです。

「斉人の泥棒」は、泥棒が斉人であることは認めたうえで、斉では泥棒を働かないのに楚で泥棒になってしまうのは…と、ブーメランになるようにしています。こうして「あなたの論理はそのままブーメランですよ」とすることで、相手の非礼をそのままひっくり返しました。

こうした手法が、「嗤い」以外にもたくさんあります。ですから、「嗤い」なんか捨てちまえばいいと思います。晏嬰の手法は、相手をもう一度礼節に引き戻す力がありますけれど、嗤いは人をガサツにします。これはダメ。捨てましょう、こんな手法。

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