「嗤い」は「炮烙の刑」を笑う残虐な支配欲

私の小さな頃から、どつき漫才というのがあった。ボケる相方をどついて笑いをとるわけだけど、当時、大人たちは「汚い笑い」と言って評価しなかったことを覚えている。強い者が弱い者を一方的に殴ることは弱い者イジメにしか見えないという常識が、当時にはあったのだろう。

私が、弱い者イジメをメジャーなものにしたと最初に感じたのは、ビートたけし氏「スーパージョッキー」の熱湯風呂だった。たけし軍団の人間が、熱湯風呂に叩き落とされてはそれを嗤うという番組。たけし氏という支配者が、たけし軍団という非支配者を熱湯で苦しめ、それを嗤うという内容だった。

その様子は、ある中国の故事を思い起こさせた。中国歴代の中でも悪王として名高い紂王は、妲己という女性と共に「炮烙の刑」を楽しんだという。燃え盛る炎の上に油を塗った銅の柱を渡し、滑って焼け死ぬのを、二人で笑い転げて見ていたという。熱湯風呂は、いわば現代の「炮烙の刑」だった。

ただ、熱湯風呂はかろうじて「逃げ道」がまだあったように私には感じられた。熱湯に突き落とされて怒り、その場を立ち去り、楽しい空気をぶち壊しにしても「そりゃあ怒って当然」と思える余地がまだ残されていた。たけし軍団は自ら選んで熱湯に落ちてるのだ、というお約束を感じることができた。

ところが、ダウンタウンが創造したと言われる「嗤い」には逃げ道が許されなかった。イジリまくり、からかいまくり、嘲りまくり、それで相手が怒ったら「冗談やんか、本気で怒るなや」と、怒った方の負け、という構図。イジられる側はどれだけ不快な思いをしても、逃げ道を絶たれていた。

なぜ逃げ道が断たれたのだろう?なぜ「怒った方がおかしい」とされるのだろう?それは、ある人間心理を巧妙に悪用したものだからだろう。
みんなが笑ってる和やかな空気をぶち壊す人間は、空気の読めない奴、みんなを不愉快にするダメな奴、という「常識」が、私たちにはある。

ダウンタウンの創造した「嗤い」は、この常識を「人質」にとり、「え?みんなが笑ってるこの空気をお前がぶち壊すの?お前、ひどいやつだな」という構図に追い込む。この構図の中では、嗤われ続けるのも不快、怒って拒絶しても、「心の狭い奴、冗談の分からない奴」とレッテルを貼られて嗤われる。

この「嗤い」からは誰も逃れられない。「嗤い」とは、和やかな空気を壊す人間になりたくない、という人間心理を人質に取り、「嗤い」を主導する者を支配者に、嗤われる者を敗者、被支配者に転落させる、人を支配する技術だといえる。

ダウンタウンが登場する前は、笑いは人を支配するものではなかった。あくまで人を笑顔にするサービスだった。ビートたけし氏の熱湯風呂でさえ、まずはたけし軍団の支配者と支配される側という構図が先にあって、その後に「嗤い」が来る、という順番だった。ところがダウンタウンの「嗤い」は。

それまでに支配・被支配の関係になかった者同士でも、「嗤い」を武器にして相手を支配できることを示した。
志村けん氏のバカ殿に、ダウンタウンの浜田氏が登場したことがある。浜田氏は、お笑いの大御所である志村氏を、ハリセンでどつき倒して笑い者にした。大御所さえ支配できる「嗤い」。

まだ駆け出しだったダウンタウンが、どんなに権威のある人間でも「嗤い」で支配し、自分を上位に置き、相手を下位に転落させる。彼らはまだ駆け出しだったからこそ、本来支配者であるはずの権威を嗤いで支配していくその破壊力に、「お笑いの革命児」ともてはやし、喝采を送る人たちが多かったらしい。

しかし、その前の世代であるお笑いの天才・横山やすし氏は、ダウンタウンの「嗤い」を「悪質な笑い」と言って酷評した。しかしそんなやすし氏の警告など無視し、ダウンタウンはやすし氏を戯画化し、嗤い者にするコントをするなど、嗤いでおちょくり続けた。

これが、当時の若い人には強きをくじく「正義」に見えたらしい。ダウンタウンという、本来弱者であるはずの新人が、支配者であるはずの権威を次々に「嗤い」で下位に引きずり下ろし、自分を高みに引き上げる。その痛快さに多くの若者たちが酔ったらしい。

この「嗤い」による支配を、当時の若者たちはすぐにまねた。ウィキペディアにあるように(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/松本人志)、坂本龍一氏や伊藤乾氏は、彼らの「嗤い」を模倣し、相手を愚弄してはそれで当惑する人間を嗤うというイジメを全国的に流行らせた、と指摘している。私も同感。

私が学生の頃には、一気飲みというのが流行した。「一気!一気!」という掛け声に合わせて大量の酒を飲み干さねば許さないという空気の支配。もし一気飲みを断れば「お前、この楽しい空気をぶち壊しにする気か?」という脅しを背景にして。「嗤い」は人を支配できる、という手法の応用例といえる。

だが、私は思う。「嗤い」を弄する者は卑怯者である、と。和やかな空気、楽しい空気を自分がぶち壊しにしたくない、という優しい気持ちを人質にとって、拒否することも許されない、逃げることも許されない構図に人を追い詰める手法は、卑怯そのものではないか。

ダウンタウンは若くして「支配者」となり、お笑いの少なくとも一角の頂点に上り詰めた。その栄光を見て、若い人たちはあこがれ、マネをした。しかし私からすれば、これらの動きは「自分も支配者になりたい」という欲望でしかない。しかし「嗤い」は必然的に支配される者を生む。

支配される者は、侮辱され、屈辱を受け、それを拒否したくても逃げられない。90年代は陰湿なイジメが全国の学校で広がったが、そのイジメを可能にしたのは、支配する技術である「嗤い」が広く普及したことによるだろう。その嗤いを創造し、普及させた代表格が、ほかならぬダウンタウンのようだ。

しかし「嗤い」はしょせん、「炮烙の刑」だ。人が焼け死ぬのを笑い転げて見ている残虐な行為だ。しかもそれを成立させているのは、「楽しい空気をぶち壊しにしたくない」という優しさを逆手にとり、人質にするという卑怯な手。私には、「嗤い」を称える人の気持ちがとんと分からない。

いや、理解できなくはない。何しろ「嗤い」を使えば人を支配でき、自分はその座の空気の「支配者」となれるのだから。「嗤い」を前にしては、どんな権威者も打倒され、屈辱をなめることになる。こんな強力な武器を駆使できるようになりたい、それによって自分も支配者に、と願うのかも。

しかし、やすし氏が喝破したように「悪質な笑い」だ。人を支配することを喜ぶのは、独裁者の楽しみ方だ。ダウンタウンはお笑いの革命児と呼ばれているそうだが、私から見ると、軍事クーデターによる独裁政権の手法によく似ているように思われてならない。

「その場の楽しい空気をぶち壊しにしたくない」という優しさを悪用して人を支配する。こんな「嗤い」は、私には卑怯にしか見えない。全然笑えない。私は、「嗤い」を評価する気に全然なれない。

松本氏がテレビに復帰するなら、大阪で人気の「探偵ナイトスクープ」ではないか、という記事を目にした。私は、西田敏行氏が局長の間は見ていたが、松本氏が局長になってからは見たことがない。「嗤い」を見たくなどなかったからだ。

私は、人の優しさを悪用して人を支配する手法である「嗤い」というものを、もう一度しっかり見直した方がよいように思う。私には、どうしても卑怯な行為にしか見えない。人を支配することを目的とした「嗤い」など、願い下げだと私は考えている。

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