本をお土産に買ってくるコツ
私は子どもへのお土産に本を買っていくことが多い。一つには、オヤツに飢えていた私の子ども時代とは比べものにならないほど、うちの子はお菓子を食べないから。甘いもの買ってもずっと食べずに放置されてることがしばしば。で、仕方なく本屋を物色して買っていくことが多い。
本を買う基準としては、
・ともかく面白い
・興味関心の幅が広がるもの
・知識は網羅しなくて構わない
を心がけている。
お受験を考える場合、点数の取りこぼしを防ぐために、知識の漏れのないものを読ませようとしたくなるかもしれない。しかしこうしたものは教科書的で面白くない。
知識の漏れのないものなんて、教科書だけでたくさん。漏れがないという意味で、教科書というのは実によくできている。私立でさえ、教科書以外の知識を使った入試試験は出せないことになっている。なら、教科書に教科書を重ねる必要はない。それに、教科書は興味が持てるようには作られていない。
だから、教科書では難しい「その分野に興味を持たずにいられない本」を読むほうがいいと考えている。
たとえば「マンガでわかる中学数学」という本がある。中学数学の骨格しか紹介していないから、これだけ読んでテストで100点取るのは難しい。というか、無理だと思う。でも。
うちの子らはこの本を読んでケラケラ笑っている。当時、小学二年生だった娘も喜んで何度も何度も読み返している。面白いから。おかげで中学数学の骨格は息子も娘もついでに頭に入っているらしい。その知識は穴ボコだらけだろうけど、穴ボコは学校の授業で埋めてもらえばよいと考えている。
いわば、旅行前に読む旅行ガイドのようなもの。旅行ガイドには観光地の見どころが紹介されている。しかし話に聞くのと実際に目にするのとでは大違い。だから旅行ガイドを見たから旅行したのも同様かというと、全然違う。では旅行ガイドも読まずに旅行すればよいかというと、さにあらず。
旅行ガイドには、見どころ、つまり「着眼点」が紹介されている。私たちは着眼点を示されないと、目にしてても気がつかないということが起こり得る。道を歩いてても、目に入ってるはずの道端の石ころ(路傍の石)に気がつかないのと同じ。私たちは着眼点を示されたものしか見えない性質がある。
だから、旅行ガイドにあたる本を読んでおくと、学校で習ったときも「あ!あの本で読んだヤツだ!」と嬉しくなるだろう。知ってるのに出会うと人間は俄然興味が湧くという不思議な性質がある。だから、穴ボコだらけで構わないから、できるだけ興味関心が湧きそうな面白い本がよいように思う。
本をお土産に買う際、注意してることがある。読むことを絶対勧めないこと。「この本面白いよ!」と勧めると、不思議なほど本を読まない。まあ、うちの子が特にアマノジャク成分多めの子だからかもしれないが、話を聞くと、うちの子だけでもないらしい。勧めたものは読まない法則、かなりの子に。
これは大人でも起きる現象。たとえば本とか映画とか「面白いから絶対に見て!」と言われたとき、不思議なほど観ようと思わない、読もうと思わないことがある。特に身近な人が勧めたものほど。これは恐らく「手柄顔されるのがシャク」という本能があるからではないか。
もし勧められた本なり映画なりを見たとして「ね!面白かったでしょう!」と言われるのがなんとなくイヤ、って人は少なくないように思う。教えられたことをなぞった感じだと、ツバつけられたものを食べさせられた感じがして、イヤ。どうも人間は、自分の力で面白さを発見したいという気持ちがあるらしい。
一度、私は失敗したことが。古本屋で子どもの頃に愛読した図鑑を見つけて喜んで買い、息子に「これはお父さんが子どもの頃、愛読してたものでね」と渡すと、一度も本を開こうとしなかった。「お父さんが内容をよく知ってる本を読んでも、お父さんが知識をひけらかすだけがオチ」と見抜かれたらしい。
他方、知人が贈ってくれた図鑑を息子に渡すと、貪るように読んだ。私の渡した図鑑と内容かぶる部分も多かったのだから、私の勧めた図鑑を読んでもよさそうなものだけど、「お父さんが読んでない、知らないことが載ってる本」であることが、息子の興味を引いたらしい。子どもはどうやら、未開拓地を開拓するのが大好き。
それ以来、お土産で買う本は、パラパラめくって面白そうかどうかは軽くチェックするけど、中身をなるべく知らずに済ませるようにした。
あと、本を決して勧めない。変に勧めると「お父さんが内容をよく知ってる本」疑いが発生し、「お父さんのツバついた本」と見なされ、読まなくなるから。
読むかどうかは子どもたちに委ねる、任せる。全く読まなくても気にしない。読まないなら、私のチョイスが間違っていただけで、次の本選びの参考にすればよいだけ。実際、あまり興味が持てずに手を伸ばさなかった本もあった。ところが先日。
私の買ってきた本は全て読破している、と息子から聞かされて驚いた。娘は乱読派だから読んでるのは知っていたけど、息子は好き嫌いがはっきりしてるから読んでない本もあると思っていたら、意外だった。私の見てないところで読んでたらしい(でも私が勧めた図鑑は読んでない)。
勧めさえしなければ子どもはヒマなときに目を通してる様子。息子は小さい頃、算数数学にやたら興味が強く、他の分野に興味がわかなかった様子だけれど、今は社会も理科も英語も国語も英語も手話も暗号もスポーツも興味がある。本が関心の幅を広げてくれた様子。
本をお土産に買う条件として
・本を絶対に勧めない
を付け加えるとよい様子。
うちの子らは、全分野的に興味関心が広がり、かつ、学校での授業も面白く聞けてる様子。恐らく、穴ボコ知識を埋められる快感が学校の授業にはあるからだろう。「これは知っていたけどこれは知らなかった!」発見の喜びがあるのだと思う。
進学塾の多くは、学校で習うより早く、学習内容を細かく網羅的に教えてしまうらしい。そのせいで、学校の授業がつまらなくて退屈する「浮きこぼれ」(落ちこぼれの逆)が起きることがある。発見がないからつまんない。つまんないから授業態度が悪くなるという現象が起こり得る。私は、これ、有害だと思う。
私は、学校というのは、単に学習する場所というだけでなく、家族ではない第三者と関係性を結ぶ訓練の場でもあると考えている。子どもはいずれ、親が死んでいなくなった世界、赤の他人だらけの「第三者の海」で生きていくことが必要となる。その訓練の場が学校。
なのに学校の授業をつまらなく感じたり、その内容に四苦八苦してる同級生を見下すようなことになったら、「ただお勉強ができるだけのイヤなヤツ」に陥りかねない。学校より先行して、漏れのない網羅的な学習を塾で済ませることは、果たして子どもにとって有益なことかどうか。私は有害な気がする。
私は、哲学や思想の本を読むとき、必ず案内役になる新書本を読むことにしている。たとえばルソーの思想本を読む前には、ルソーという人物の一生を面白おかしく紹介した新書本を読む。すると、旅行ガイドの見どころ紹介のように、ルソーの思想の見どころ、着眼点を教えてくれる。
その着眼点を持ってから思想書を読むと、「あ、なるほどな、そういうことか」と腑に落ちることが増える。新書本でなんとなく骨格も教えてもらっているから、あとは骨格の穴ボコに肉付けする作業をすればよい。鉄筋を張ってからコンクリートを流し込むような感じ。頭に定着しやすい。
本を読んでない子がいきなり授業で初めてのことを習っても、頭に残りにくいと思う。本人の中に骨格も何もないから。鉄筋も型枠もないところにコンクリートを流し込んでも、地面にダラダラと流れてしまうだけのように。興味関心を本でもマンガでもテレビでもいいから広げておくと、それが鉄筋や型枠になる。
鉄筋コンクリートの建物を建てるには、型枠と鉄筋を設置してからコンクリートを流し込むように、知識を得るにも段階が必要。そして、型枠や鉄筋がパタンと倒れないように基礎をしっかり作る必要があるけれど、知識においてそれにあたるのが「面白さ」。面白くなけりゃ骨組みは根付かない。
そして面白いものを面白く感じるには、大人という先行者が「面白いよ!」と勧めないこと。推理小説をこれから読もうとする人に真犯人やトリックを教えたらアカンように、映画を観る前にクライマックスを教えたらアカンように。子ども本人が未開拓地を開拓する気分を損ねないように気をつける。
もし子どもが本の知識を披露してきたら、「よく覚えてるなあ!」「うまいこと説明するなあ!」と驚き、感心するとよいように思う。すると子どもは本をしっかり読み込み、大人に解説して驚かそうと企む。それが本の読解力を高め、本人自身が発見することの楽しみを発見することになる。
すると、いずれ親に説明することの楽しみがなくても、知識を得ることそのものの楽しみ、喜びを知り、勝手に学ぶようになるだろう。そうして、親の手を離れていく力を身に着けてもらうためにも、本を読むことをできるだけ楽しいものにしたほうがよいように思う。