哲学・思想はなぜ学ぶのか
3、4冊目の本は、テーマを自由に決めていいと言ってもらえた。で、「哲学や思想を紹介する本を」と提案すると「それはちょっと・・・」と言われた。哲学の本は売れないのだという。哲学コーナーに陳列された時点で売れないことが決定されるそうな。やむなく、イノベーションと思考法の本に。
ではイノベーションや思考法の本をなぜ書けたかというと、それは哲学思想を学んだから。人によって哲学思想をなぜ学ぶのか、理由が違うかもしれないけど、私の中では「その時代の常識を破る」作法を学ぶためのものだ。イノベーションの方法や、思考の檻からの脱出法は、哲学思想から学んだ。
私達は、自分がどんな常識に囚われているのか自覚ができない。自覚できないから常識なのかもしれない。「常識を疑え」なんて言われることもあるけど、そもそも疑うとっかかりさえつかめないのが常識。けれど哲学者・思想家は、時代の常識を打ち破り、新しい常識を創り出した。
世界史を変えた事例として、ボッカッチョ「デカメロン」は典型的。この、カボチャでメロンな名前の人物と本は、当時の常識を覆し、世界史を変えた。ではその内容はいかなるものかというと。
エロ本。
中学歴史の教科書にも載っているこの本の正体は、エロ本。
硬派を気取っていた大学生の私は、次に「デカメロン」を読んでやろうと本屋で手にとって表紙を見たあと、すぐに本棚に戻した。ちくま文庫から出ていたその本は、女性の太もももあらわな表紙になっていた。とてもエロい。というか、表紙を見れば誰もがエロ小説の本だと思うだろう。
私は、レジ係が男性に交代したのを見て、レジに向かった。しかし私の前に1人お客さんが。表紙を隠して列に並んだ。私の前のお客さんが済んだあと、さあ私の番となったとき、レジが女性に変わった。本の裏を見せて出したのに、レジの女性はひっくり返して表紙をあらわに。ああ。
本を読み始めると表紙のエロい理由がわかった。内容がエロエロ。こんなにエロい古典を他に知らない。
次に湧いた疑問は、「なんでエロ本が歴史に残ったのか?」。歴史の教科書には「デカメロン」が載ってはいたけど、なぜデカメロンが歴史に名を残したのか、その理由は書かれていなかった。
解説を読んでようやく納得がいった。「デカメロン」を書いて以降、ボッカッチョは僧侶たちから「悔い改めよ、地獄に落ちるぞ」とさんざん脅されていたという。ボッカッチョはせせら笑って相手にしなかった。ボッカッチョはそのまま地獄に落ちることなくそれなりに平和に生きた。しかし死ぬ直前に。
恐くなって、僧侶の勧めるまま悔い改めたらしい。では何を恐れたかというと、当時、僧侶の悪口を言ったら地獄に落ちると信じられていたからだ。僧侶は神の代理人であり、僧侶に逆らうことは神に逆らうこと。だから僧侶の悪口を言うなんて、当時はとても信じられない暴挙だった。
ところがボッカッチョは、僧侶たちのエロスを書くことで、当時の僧侶がいかに堕落しているかを描き出した。僧侶の言うことが本当ならば、ボッカッチョはすぐさま天罰が下るはずだった。ところがボッカッチョにはなかなか天罰が下らなかった。この様子を見て当時の人たちは。
「あ、僧侶の悪口言っても天罰下らないんだ」と思った。ならば、僧侶たちの説教なんか無視して自由に物事を考えればよい。こうしてキリスト教のくびき、僧侶たちの呪縛から逃れる人たちが現れ、ルネッサンスが始まっていく。エロ本がキリスト教の呪縛を解いたわけだ。
哲学・思想は、その時代の常識を揺さぶり、新しい常識を生み出してきた。常識の変化が恐ろしいのは、人々の行動が根本的に変化していくからだ。1人の将軍が戦争に勝って英雄になっても人々の行動はなかなか変わらないが、常識が変化すると国全体、あるいはヨーロッパ全体、世界全体が動き始める。
哲学・思想を学ぶのは、そうした常識の破り方、新常識の作り方を学ぶためだ、と私は考えている。そう考えると、哲学・思想は本来、無茶苦茶面白い。なのになぜこんなに人気がないのか?それは一つには、哲学・思想の研究者にも責任がある。言葉が難しすぎて何を言ってるのかワケわからんこと。
ヘーゲル研究者が自戒をこめながら書いてたけど、「まるでお寺のお経のように、呪文めいた難しい言葉を使うと日本人はありがたがる傾向がある。それを哲学者は利用して、あえて難しい専門用語だらけにして、自分たちは高尚な学問をしているのだとふんぞり返っていた」と。
たとえば哲学の専門用語で「実存」というワケわからん言葉がある。でもこれ、英語でいうis,am,areなどのbe動詞やん(ドイツ語ではsein)!ドイツ語や英語は、日本語のように「〜にいる」と「〜である」が区別できず、みんなbe動詞になってしまうものだから、表現に苦労してるだけ。
向こうがbe動詞で示しているものをなんでわざわざ「実存」なんて訳すのか。「〜である」「〜にいる」でええやん。日本語は使い分けられるんだから。
哲学はこんなことが多い。向こうの哲学・思想をありがたがって、まるでお経と同じように、専門家にしか通じない難解な専門用語にしてきた。
しかし、哲学最初の著作と言えるプラトンの本なんか、登場人物のソクラテスたちが寝そべりながら酒をかっくらい、日常の言葉でおしゃべりを楽しんでいる。専門用語なんか出てこない。哲学は本来、日常の中で気づかなかったことに気づこうとする、探索の楽しみ。だから愛知(フィロソフィア)という。
だいたい、哲学なんていう訳語自体がしかつめらしい。向こうで哲学を意味するフィロソフィアという言葉を訳すと、知を愛する、という意味。なら、「愛知」でいいやん!どこかの県名みたいやけど。県名と区別するなら愛智でもいいや。哲学は、その名称からすでに難しく話そうとする傾向。
6冊目の本は、哲学・思想を、専門用語を使わずに紹介することにしている。しかしそれぞれの哲学者・思想家を丁寧に紹介するつもりはない。これまでの紹介する本は、妙に哲学者・思想家に忠実であろうとする。その哲学者が何を言おうとしたのか、その真意を必死になって探ろうとすることが多い。
でもあえて、私は「社会にその人たちがどんな影響を与えたか」だけに的を絞った。世界をどう変えてしまったのか、そこに焦点を絞って書いてみた。案外、そうした本は少ない。「社会思想史概論」「社会思想史十講」などの名著があるけれど、言葉が難しいという問題がある。
専門用語を使わず、哲学・思想が世界をどう変えてきたのか。その歴史を学ぶことで、現代に生きる私達がどんな常識に囚われ、どんな風にそれを打ち破ればよいのかをお示しできたらと思う。
本が形になってきたら、改めてアナウンスさせて頂きたいと思う。
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